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日口交渉秘話より 追跡!『ディアナ号』の艦載砲

2012年4月18日 Posted in 「会報」第01号
桑嶋洋一

 遊就館(靖国神社境内 東京)前に、1挺の古砲が展示されている。同館の説明(1995年)によれば、1854年開港を求め来日したロシアのプチャーチン提督の乗艦ディアナ号の艦載砲で、幕末の日ロ交渉の記念物とされている。
 開国交渉は1854年伊豆下田で行われたが、12月23日畿内東海諸国地震に見舞われ、下田は壊滅状態となりディアナ号も損傷を受けた。結果的にディアナ号は沈没し、代船が隣村戸田で造船され、プチャーチンは新造船を「戸田号」と名付け、ディアナ搭載砲8挺を搭載し残りの52挺を下田に預けて帰国した。1856年11月8日開国交渉批准交換が下田で行われたが、ロシア政府は下田・戸田両村民が震災で大被害を受けたにも関わらず献身的にロシアを援助してくれたお礼として、日本に52挺のデイアナ砲を寄贈した。
 一方箱館奉行は、北方警備の拠点として五稜郭と弁天岬台場を完成させたが、配備する砲が無くディアナの30斤砲24挺を幕府に要求した。しかし、日本が寄贈を受けた30斤砲は18挺だったため別性能砲が追加されたらしい。また榎本艦隊の回天丸は、幾挺かを江戸で搭載し箱館海戦で弁天岬台場付近に沈没した。戦後、沈没海域から回天丸砲として4挺が引き揚げられ、1910年函館区から2挺が遊就館に寄贈された。その1挺が現存砲である。
 現存砲にはイギリス女王のマークが鋳刻され、ディアナ砲では無い事が分かった。ディアナ砲には帝政ロシアのマークが鋳刻されていたからだ。現存砲はイギリス女王の旗艦の艦載砲で、同艦はイギリスから幕府に献上され、箱館戦争の時蟠龍号と名を変え榎本軍に参加し回天丸の近くに沈んだ。両艦の大砲は海底に散乱し、回天砲を引き揚げた時蟠龍砲が混じったと推測される。また、榎本軍は10挺を函館から室蘭に移設したと言われているが、確認出来たすべてのディアナ砲は太平洋戦時中に金属回収で消滅した。
 いま認識されている「北方領土」の境界は、ディアナ号来日で決められた。日本に寄贈された52抵の砲は、「今より後両国末永く真実懇にして...人命は勿論什物に於ても損害なかるべし」と両国が確認した、日露通好条約第一条を支える証明品である。(了)

 「会報」No.1 1996.8.21 研究会報告