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A.T.マンドリク著「ロシア極東の漁業史1927年-1940年」の要約の試み

2012年4月24日 Posted in 「会報」第17号

A.トリョフスビャツキ

 ご存じのように著者は、ロシア極東の歴史、特に漁業史では有名な研究家であるが、昨2000年に出版されたこの本は函館の歴史研究上でも、大いに参考になると思われるので、以下に概要を翻訳して紹介する。

 1920年代後半にソ連では五ヶ年計画に基づいた社会主義建設が進められていた。その時に共産党中央委員会や人民委員会議の決議によって国営漁業の構造改革も行われていた。ソ連極東に於ける第一次五ヶ年計画(1928・29~1932・33年)草案では中心が置かれたのは漁業分野の発展であった。しかし中央機関(国家計画委員会や最高国民経済会議)のなかには経費がかかり過ぎる遠い地方より革命前から開拓した地方の産業の発展に力を入れた方が合理的だという考え方が強かったので、極東からは資源や半製品だけを海外市場に輸出すれば良いと考えられた。
 第一次五ヶ年計画前の1927年に、ソ連の総漁獲高は革命前の85%しか達成しなかった。全国の魚介類の漁獲高の71.8%は昔から開発した漁区が占めていたが、北極海やロシア太平洋沿岸の新しい極東漁区は27.2%しか占めていなかった。五ヶ年計画では国営漁業企業の急速な成長率とともにロシアや海外の民間漁業家の役割を削減することも予定されていた。国営漁業企業セクターに「ダリゴスルイブトレスト」、カムチャツカ株式会社(アコ会社)、サハリン株式会社(アソ会社)などが属していた。特に期待されたのは海外市場で日本企業と競争できる缶詰分野であった。
 五ヶ年計画では主な輸出地域としてカムチャツカと北サハリンが定められ、そこから魚や蟹缶詰などが輸出された。1929-1932年にカムチャツカから海外市場への水産物の輸出額は2860万ルーブルで、1930-1932年に北サハリンからは4968.6トンの水産物と缶詰の9万8180箱が輸出された。1928年のパリ博覧会に展示された北サハリンの塩鮭はグランプリをとった。極東地域の水産物輸出は外貨、特に日本円の獲得になった。1927-1930年には輸出で1億2090万金ルーブル相当の外貨が得られた。その金でソ連側は日本から蟹工船に改造された船舶、機械、漁網などの漁業資材を買付けた。日本の関係企業として(株)函館製網船具(250万円)、大洋漁網商会(100万円)、(株)日本漁網(75万円)、葉加瀬商店(40万円)などが挙げられている。
 第一次五ヶ年計画末には極東漁区は全国の漁業漁獲高の29.2%、カスピ海漁区は35.2%、黒海・アゾフ海漁区は19.7%、北極海漁区は11.6%、アラル海・バルハシ漁区は4.2%を占めていた。極東漁区は、漁獲高では国内だけでなく、世界的にもかなり目立つようになった。たとえば、1932年にはその漁区の漁獲高は、イギリスの45%、アメリカの33%、日本の約20%に達していた。
 当時、ソ連の極東漁業では、ロシア人労働者と並んで日本人漁夫や労働者が雇用されていた。その人数は1929年に3万475人、1930年には3万8559人であった。日本人の雇用に掛かった経費は1928-1932年に4090万7千円であった。1930年から次第に雇用の規模は減少しはじめる。
 アコ会社が雇用した日本人労働者の数は次第に減少し続けていた。1928年に会社の労働者の34.6%は日本人であったのに対し、1929年に33.2%、1930年に19.5%、1931年に6.2%、1932年に3.3%まで減少した。同じ現象は他のソ連の漁業企業でも見られた。
 第二次五ヶ年計画(1934-1939年)で、ソ連政府はサハリンやカムチャツカの総合的経済発展とともにその地域の輸出力を維持することにした。極東地域では強力な造船施設がなかったことや、中央ロシアから船舶を極東に移動させるため莫大な経費が掛かったため、ソ連側は日本の造船所で1937年までに合わせて800万円の契約で192隻の船舶を建造した。1941年までに極東漁区は全国の漁業漁獲高で二位を占めるようになった。
 1930年代のソ連では一国社会主義論の下で全体主義的国家建設が進められていて、それは協同組合運動に直接的影響を与えた。漁業では今までの小規模なコオペラチブ(協同組合)の替わりに漁業コルホーズ(大規模な協同組合)こそ社会主義建設に相応しいと考えられるようになり、全国的に集団化が行われるようになった。1928年1月に16しかなかった漁業コルホーズの数は7月に147まで増え、1929年1月までに356の漁業コルホーズができた。その漁業コルホーズには、ソ連全体の個人漁業者の60%を占める9万37人を集団化させた。中央ロシアでできた幾つかの漁業コルホーズが極東へコルホーズごと移住させられたこともあった。
 1933年の漁業に於ける集団化率は80.9%、1934年に86.2%、1935年に93.6%を達成した。極東でも1935年の集団化率は90.5%まで増えた。
 1930年代初頭にソ連国家は明らかに個人漁業者の打倒政策を取り、そのため革命前のいわゆる「ブルジョア専門家」の多くはその職を追われ、「妨害活動」の嫌疑をかけられて裁判で有罪とされた。極東でその大規模な粛清の始まりを意味していたのは統合国家政治局OGPUによってでっち上げられた「ダリゴスルイブトレスト妨害事件」であった。逮捕された多くの極東漁業の幹部や個人漁業者は、反革命組織をつくり、日本の三菱や日魯漁業の手先に使われ、ソ連の漁業を妨害し、最終的にソ連から独立した国家を極東で宣言し、それを日本の保護下に置くかのように供述した。逮捕の波は極東全域に広がった。(未完、次号)

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「会報」No.17 2001.6.18