函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

故国に帰った白系ロシア人の運命 ―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―

2012年4月24日 Posted in 「会報」第13号

小山内道子

 モスクワ滞在中の9月中旬思い立って、約10年ぶりにサンクト・ペテルブルグを訪ねた。「来日ロシア人研究会」で知り合った安井亮平先生のご友人ナターリア・マクシーモヴァさん宅にホームステイさせていただき、目的の調査にもご協力頂いた。ナターリアさんがアファナーシエヴァさんと親しいことをふと思い出して、「もしかして、ヴェーラ・アファナーシエヴァさんにお会いできないでしょうか?」と尋ねると、気軽にすぐお電話して下さって、翌日の午後、お宅に伺うことになった。
 ヴェーラさんとは、有名な画家であり、また長年早稲田大学でロシア文学を講じられたワルワラ・ブブノワさんと最晩年を共に暮らして、みとられた方である。東京生まれで、洗礼の時アファナーシエフ家と親しかったブブノワさんが代母になってくださったご縁だった。(ヴェーラさんについては先頃放映されたNHKテレビの「小野アンナの生涯」で紹介されたが、本稿ではヴェーラさんの物語は割愛する)。
 ヴェーラさんのお宅に着くと4時を回っていた。「こんにちは、いらっしゃい!」ヴェーラさんはロシア人としては小柄で、自然な日本語が響くので、日本人のお宅に伺ったかのような錯角を覚える。
 「こちらはガーリャさん、ズヴェレフさんの娘さん、函館にいた、知ってますか?北海道の方がいらっしゃるというからお呼びしたのよ」とヴェーラさんが、一人の女性を紹介してくれた。
 ズヴェレフさん?ああ、あのズヴェレフさん、スパイ容疑で検挙され、1944年獄中で亡くなった方...とすぐに思い出した。釧路に居た白系ロシア人が投獄された時、同時に獄中に居た函館の人として覚えていた。 「ガーリャさんですか?まあ、ペテルブルグに住んでおられたのですか!」ほんとうに驚きだった。予期せぬ思いがけない出会いだった。60代の半ば過ぎだろうか?髪は真っ白だが、ふくよかで典型的なロシア人女性の感じだった。顔の表情は明るかった。その後賑やかなおしゃべりが延々と続く。
 不確かな部分は電話で確かめたが、その時のメモからガーリャさんの人生をたどってみた。(以下敬称を略し、「ガーリャ」とした。現在の性は、アセーエヴァさん)。
 ズヴェレフ家は1932年頃まで室蘭で暮らしていた。6人の子どものうち上の3人は室蘭生まれ、1933年生まれのガーリャから下が函館で生まれた。
 ガーリャがお母さんに聞いた話では、1歳の頃大火があって家は全焼した。それまではパンやケーキも作って店に出していたが、火災の後は洋服屋と行商をやった(34年の大火の被災者の中にズヴェレフ家6名と出ている資料を清水恵氏が来日ロシア人研究会の会報「異郷」で紹介している)。
 ガーリャは函館で小学校に入学し、2年生まで通った。だから、九九も日本語で覚えているし、国語の教科書や童謡も覚えていると言って、ほんとうに上手にとなえてみせた。その後、姉や兄が通っていた東京の「ルースカヤ・シュコーラ」(ニコライ堂内のプーシキン学校)に転校し、2年後に卒業した(当時4年制)。ここはインテルナート(寄宿学校)で、同級生にベロノゴフ、カターエヴァ、ユーシコヴァ、パンチューヒナなどがいて、とても楽しかったという(これらの名前は私にもお馴染みで、ほとんど釧路に居た家族である)。先生はゾーヤ・アレクサンドロブナ。すごく良い先生で、子どもたちに好かれ、信頼されていた。東京のいろいろな博物館、展覧会、劇場などへも連れていってくれたが、2年目にアブラーモフ氏と結婚したので、子どもたちは皆がっかりしたそうだ(このアブラーモフ夫妻はアファナーシエフ氏の後「ロシア人クラブ」の管理人を継ぎ、生涯を日本ですごしている)。
 卒業後は横浜のセント・モア女学校に入った。兄たち男の子は男子校のセント・ジョージ校に通っていた。1943年セント・モア校が閉校になるというので、既に姉と兄が行っていた大連のギムナジィアに転校した。この学校はロシア人のためのパンシオン(全寮制中学校)で10年制だった。1945年終戦でいったん閉校になったが、翌年ソ連の学校として再開された。この終戦前後の2、3年は食べ物も満足になくてとても辛かったという。
 函館の家とも連絡が取れなくなっていた。お母さんが手を尽くして探してくれて、ようやくお互いの生存を確かめあったが、姉兄と4人で大連に留まり、お母さんは2人の妹・祖父とで終戦の翌年東京に移ったという。
 1949年、学校を卒業して、行政府から孤児の扱いで下の兄と共にウラジオストックの職業訓練校に送られ、2年間通信技師としての教育を受けた。卒業後兄はチュコトへ、ガーリャはユジノ・サハリンスクへ配属され、それぞれ3年間働いた。その後、兄と共にサハリン北部へ行き、オハとマスカリヴォで計17年間も働いた。その間に結婚し、息子が生まれたが、1968年に離婚してレニングラードに移った。レニングラードには1952年結婚のため帰国した姉が住んでいたからである。ここでは電話局で12年働いた。
 1980年、年金を早く貰うため極北で働くことになり、北極海のノヴォシビルスキイ島の"極地センター"でコックとして4年半働く。1985年レニングラードに戻り、年金は出たが、息子が大学に行くことになったので、今度は地下鉄で6年間働いた。今は年金生活で、息子夫婦、孫の4人で暮らしている。姉と下の兄もペテルブルグにいる。姉は脳硬塞のため身体が不自由になっているが、日本語もよく覚えているし、日本のことは何でもよく知っていて、とてもなつかしがっている。
 お母さんたちは、1957年に長兄が住んでいるロストフに帰国した。ガーリャたちはそこでお母さんとようやく14年ぶりに再会し、お父さんの死のことも詳しく聞くことができたのだった。お母さんは1965年癌で亡くなった。
 末の妹はレニングラード大学東洋学部に進学し、日本語を専攻したが、キューバ人と結婚してキューバで暮らしているが、1995年に日本に旅行して、函館にも行き、お父さんのお墓参りをしてきた。
 以上がガーリャさんの波瀾にとんだ人生の航跡だった。暗くなってしまった帰り道、ガーリャさんと腕を組んで歩きながら、「北サハリンや極北は辛かったでしょうねぇ」と聞くと、「それほどでもなかったわよ。私はいつもオプチミストだから」と笑った。「いつか北海道に来て下さいね」に対しては、「残念だけど、たぶん無理でしょうね。飛行機の切符も何もかもすごく高いから」と遠い目になった。確かに普通のロシア人にとって現実は厳しいもになっている。でも、腕に伝わってくるガーリャさんの暖かみを感じながら、いつの日かガーリャさんに60年ぶりの故郷を見せてあげたい、人生の不思議を今一度体験させてあげたいような親しみを覚えた。
 ガーリャさんと別れた後、同行のナターリアさんに「ガーリャさんの人生ってすごく過酷だったのね」と同意を求めると、「国内に居てもみんなそうだったのよ。あの時代の人たちは。うちの祖父も父も戦争、革命、国内戦、スターリン時代、また戦争...とずっとひどい時代だったから...」と冷静な答えが返ってきたのでびっくりしたが、考えると確かにそうなのかも知れない。
 とはいえ、私にとってガーリャさんの出現は日ロ交流史の新たな一つの証言ともいえるエキサイティングで大へん感銘深い出来事だった。

「会報」No.13 1999.10.25