函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

F.B.デルカーチ氏の講演「函館での一年間」を聞いて

2012年4月24日 Posted in 「会報」第13号

岸甫一

 デルカーチ氏(写真)の経歴は、1969年、イルクーツク生まれ。子どもの頃から東洋に興味を持ち、高校からは日本に興味を持ちはじめたという。「ソ日交流会」のボランティアで日本語を学び、ロシア国立極東総合大学・日本語学科に入学。ハイレベルの大学で、とくに日本への関心は高いという。1994年に卒業して兵役に就いた後、鳥取県国際課に2年間勤務し、苫小牧と境港を結ぶジャパンエクスポなどに携わり若者と交流する。以上が来函するまでの氏の経歴だが、なみなみならぬ日本への思いがうかがえる。
 さて、エキゾチックなまぼろしを抱いて来てみた問題の函館に話題が移った。デルカーチ氏の話は開口一番"来てみてビックリ、ガッカリ"というショッキングな言葉で始まった。その理由は、"いなか精神が強い"こと、特にエネルギッシュな青年が函館から札幌などへ流出してしまう都会としての魅力の無さだ。
 氏によるとウラジヴォストークでもイルクーツクでもハバロフスクでも、それぞれ市民には、いなかでない都会としての自信があるという。函館の観光センターは「函館の人々のために存在しているのではない。函館はギリシャのパルテノン神殿のように大都会から人々が来る街なのだ。」「函館は田舎でいられるほど小さな街ではない。」「函館は小さな大都会になる必要がある。」という指摘は、この街の国際性・世界性のリバイバルによる活性化(函館市民は案外気づいていない)と受け止めた。幕末・維新期の国際色豊かな開港場から現在は、札幌を頂点として旭川、函館...という横並びの道内の一地方都市にすぎない。このような地域構造は近代北海道(とくに戦後)の体質といっていいほど道民意識をも規定している。デルカーチ氏の提言は、私なりに解釈すれば、これまでのように道内の一地方都市で甘んじる意識の枠組みから解き放たれることを求めたものだと思う。
 私は氏の話を聞くうちに、函館は比喩的に言えば江戸時代の長崎のように規模は小さくとも情報の発信基地になることによって現在の停滞するよどんだ街の空気が蠢き出すのではないかと夢が膨らんだ。少なくともロシアに関する情報は東京・札幌経由ではなく、函館へ行けばロシアのことがリアルタイムで何でも分かる情報のるつぼとなることが条件であろう。
 「函館の若者をどう保つか」という方向に話題は移ったが、氏によると「若者が本当に探しているものは刺激だ」という。「夜景と公園」だけではエネルギッシュな若者は去ってしまう。"「グレイ」がもし函館に残ったとしたら"という刺激的な仮定もすかさず提言された。この話題では、若者のみならず各世代の責任、とくに中年が期待されているという指摘があった。私の日頃の感想から言うと、函館に所在する大学を中心とする高等教育機関を卒業した有為な若者が地元に残らず首都圏や札幌圏に流出するのは、必ずしも若者の責任ではなく、むしろこれまで大企業が集中する大都会に就職させることにレーゾンデートルを求めてきた函館所在の高等教育機関の責任のほうが重いと思う。
 氏は、現在ロシア国立極東総合大学・函館校の自治会担当であり学生に一番近い立場にある。やはり、「勉強がおもしろくない」という青年の無気力・無関心が悩みの種であるが、最近は意欲の高い学生も来ており、学校も忙しくなってきているとのこと。
 最後に、日常生活で困ることはサイズが合わないことだそうだ。日本の大工道具の種類の多さに感動したという。古代からロシアでは斧1本で何でも切り、済ましてしまうという文化の違いも興味深く聞いた。
 以上がデルカーチ氏の講演を聞いて私が思ったことを勝手にまとめました。あくまで私の受け止め方であり、かなり私の意見や主観もにじんでいます。それにしてもロシアに近接する我々、函館に住む人間があまりにもロシアのことを知らなさすぎるのではないでしょうか。これには様々な要因があろうが、近世北方史研究者である菊池勇夫氏の指摘する「19世紀前期に成立した『北門の鎖鑰』論的な見方は、きわめて不幸なことに『敵』ロシア・ソ連のイメージとともに近代日本で増幅されてきた」ことが根底にあるように思われる。私自身は18世紀後半、ラクスマン来航を中心とする時期、つまり国境確定以前の日ロの人間関係のあり方を探ることによって日ロ関係の平和的発展のための今日的ヒントを見つけたい。とにかく、ロシアのあらゆる事をもっと知る必要があるという思いから、現在、ロシア国立極東総合大学・函館校で開かれているロシア語市民講座・入門コースに参加して学んでいるところです。

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「会報」No.13 1999.10.25