もう一つの「浦鹽斯徳紀行」
菅原繁昭
このたび私たちの研究会の会員でもある原暉之先生が「ウラジオストク物語」を上梓された。函館を含む日本各地とウラジオストクとの関連にも目配りをされるなど、都市と人を基軸とした日口関係史としても秀逸なものである。
ところで本文(96頁)の「黒田ミッション」の項で明治11年の黒田開拓使長官一行によるウラジオストク訪問に言及している。そのなかで函館の商人たちも加わり、黒田らに先発して開拓使の函館丸でウラジオストクに向かったとある。渡辺熊四郎がその一員であることは知っていたが、ほかに誰がいたのかと思い、出発間際の「函館新聞」を開いてみると渡辺のほかに平田兵五郎(後の文右衛門)、井上喜三郎、武富龍太郎、吉崎清七、榎森伊右衛門、そして渡辺の手代で「魯語に通ぜし」松井永吉らの名があげられていた(明治11.8.20付け)。
その動向は村尾元長(函館支庁)と鈴木大亮(札幌本庁)の2人の開拓使官吏によって詳細に記録されており、特に鈴木の著作は明治12年12月に「浦鹽斯徳紀行」として開拓使が発行している(村尾のものは未公刊)。帰国後の函館商人の動きを知ろうと、さらに「函館新聞」をめくっていくと、もう一つの「浦鹽斯徳紀行」に出くわした。それは函館新聞の「社中」の一員でもある平田兵五郎が9月18日から11月2日にかけて同紙に連載したものであり、帰国して間もない時期に発表されたホットな情報であった。これによって函館の人々はウラジオストクという街をおぼろげながらでも理解することになったのではなかろうか。また民間人のウラジオストク・レポートとしても早いほうに属するであろう。
平田は渡辺とともにいわゆる「洋物商」として函館の代表的な経済人の一人であり、また輸入商品を扱っていることから開拓使が意図した経済ミッションを担う一員として適任者であったろう。
さてこの紀行の中身を少し覗いてみよう。8月21日、函館を発した函館丸は小樽を経由して27日午後4時にウラジオストク港に到着した。平田たちは上陸後、2年前に開設された日本の「貿易事務館」に宿泊した。翌日、同地に在留している長崎出身の有田猪之助らに宿舎の斡旋を依頼している。一般の旅館の不足や外国人向けのホテルが高価なため、彼らで一軒家を借り、自炊することにしたものである(「渡辺孝平伝」)。紹介されたのは貿易事務館に隣接した空き家、その所有者はデンビーであった。家賃は40ルーブル(当時の日本円で20円)。
平田は深い入り江を持つウラジオストクの港湾に注目して「兵備には最も要害なる良港」と、その特質を的確に言い当て、6、7年前には「二、三十戸」であったものが現今「二千二、三百戸」と増加しており、さらに「昌隆の地に至る」であろうと述べている。
また、この当時「東邦沿海諾港の長」(軍務知事)であった「ケフェルツマン」(エルドマン)の人物評にも触れている。彼が赴任する前は無秩序に近い状態が、その任につくと「海陸軍の暴兵を縛し、奸吏を廃し、易に平民中人望あり方正なる者を挙て士官となす」などの改革を施し改善したという。こうした政治的な局面に関心をよせる平田自身とこの種の情報が誰によって(貿易事務官か?)もたらされたのか興味深い。
このほかに彼は商業事情のことも丹念に記述している。通関手続きや経費、現地で貿易業をする場合の営業税等の諸費、有力外国商人の動向、通貨事情、昆布、煎海鼠などの生産・輸出(この種の海産物関連は函館との競合関係を内包する故に関心も強かったであろう)に関すること。また同地の漁業の景況、物価、そして北海道産の有力商品である石炭の需要事情等と、さすが経済人の確かな目をもった実務的な報告といえる。わずか8日間の滞在記録ではあるが、鈴木らの報告にも遜色ない内容のものといえるだろう。
「会報」No.10 1998.12.8