函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

はこだて・ロシアの架け橋

2012年4月22日 Posted in 「会報」第10号

山名康恵

 幼い頃、ピアノがほしくて始めたピアノのお稽古。それが、私とロシアをつなぐ序曲であったことは、両親でさえも予想しえなかったことだろう。
 父の転勤でピアノ講師が変わり、レッスンも新たに、ソルフェージュを始めることになった。ピアノ演奏は、演奏する曲目が増えてくるので、幼な心にも自分は音大に行ってピアノ講師になると思い、嫌いな練習も徐々に好きな時間の過ごし方へ変わっていった。けれども、新たな声楽は、いくらやっても楽しくなかった。そんな私を知ってかしらずか先生は私に部活で合唱部に入門するようにアドバイスしてくれ、私は合唱を通じてハーモニーの良さを知っていった。
 かつて先生が参加していた旭川市民合唱団は、海外へ演奏旅行の経験があり、写真などを見せてもらったことがあった。その合唱団が再び海外での演奏旅行の計画があり、私にオーデションをうけるよう勧めてくれた。母親は、この子はまだ小さいからと、迷っていた。家族のなかで初めて海外へいく。しかも私にとって家族と離れることは、修学旅行のせいぜい1、2日ぐらいのものしか今までなかったのだ。けれども、私の心の中では海外旅行も修学旅行も何も違いがなく、よその土地へ行ける喜びに満ちていた。そんな初めての海外が、幸運にも今のロシアである旧ソ連であった。
 世界一国土が広く、「走れトロイカ」や「一週間」などの民謡しか、知っているといえばそれしかなかった。モスクワとレニングラードで過ごした約一週間、リハーサルの毎日と演奏会、そして演奏会後のパーティーと、子供にはとてもハードな日程だったが、移動中のバスの窓越しに見る町並みは、夢見るように美しかった。広い道、石造りの建物、そしてその全てが私には芸術に感じられた。
 演奏会では、鳴り止まない拍手に包まれ、一人一人にカーネーションをもらい、歌で交流する音楽の時の流れのようなものを感じた。ただ、私がやり残したこと、それはロシアの人々との会話。合唱団の少年少女たちとただアドレスの交換をするぐらいと、旅行前に覚えさせられた挨拶しか話すことができなかったこと。どうしても彼らと話すことができずにさみしかった。
 なぜそう思うのか訳がある。合唱団には団長が、演奏会には司会者がいる。彼らのとなりには、必ず通訳さんが立っている。私たちの公演に随行してくれた通訳さんの流暢な日本語にも驚いたが、彼女から発せられるロシア語は言葉というよりも音楽のメロディーに近く、初めて耳にしたロシア語にすぐに興味を抱いてしまった。ロシアの合唱団の団員も同じように話し合っているのを見て、彼らが使っている言葉で歌ったり買い物をしたり、彼らと同じようにお互いが理解し合えるよう、いつかロシア語を学んで再びこの地を訪れようと思った。
 それからの日々、一人でもこの芸術性豊かな町を歩ける語学力を付けようと秘そかに想いはせていた。そんな日々を送り続けていた高校三年の秋、ニュースで、函館市にロシア極東国立総合大学函館校の開校の話題が取り上げられていた。開校は来春、ちょうど卒業と同時期。とても迷った。すでに受験校は決まっていたし、親との話し合いが続いた。ロシア語を自分の一生の時間の今、この時期にやりたいと主張する私に対して、安心して4年間を過ごせ、就職が自ずと決まってくれるような進学を希望する両親。私のことを気遣い心配してくれるのは、親友も同じであった。
 しかし、私の考えは変わることがなかった。人と違った道へ進む怖さよりも、幼いときに自分自身で感じたあの気持ちのチャンスが今めぐって来たのだと。行ったことがないから分からないと、私の函館行きに共感してくれそうにない両親にさえ、「親が大学へ行くわけではない、私が決める。」と言い張った。
 大学4年間で培った時間は、そんな両親をも変えた。
 演奏交流で知り合ったロシアの子供たちをホームステイさせてくれ、その時に手伝いのため帰省した私を見て、私がロシア語で楽しそうに話しているのを見て、うらやましがっていた。
 ここ函館で、私の幼い頃からの夢は、雨上がりの虹のように輝かしくのびていった。大学でも様々な人に出会い、刺激にもなり、ロシアを共有できる仲間にも恵まれ、本当の自分らしさを養ってもらえたように思える。
 学生時代から今にいたるまでお世話になった方々へ感謝しつつ、これからもロシアとの交流に力をそそいでいきたいと思います。

「会報」No.10 1998.12.8