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特別寄稿 まるで現代そっくり...

2012年4月21日 Posted in 函館-ウラジオストク交流の諸相

ニコライ・アムールスキイ 著 沢田 和彦 解説・訳(埼玉大学教授)

 ニコライ・アムールスキイが幕末期の箱館に滞在していたロシア人のことを述べたエッセイを紹介する。
 ニコライ・アムールスキイ、本名ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフは1865年に箱館ロシア領事館の准医師の子として生まれ、日本で生まれた最初のロシア人といわれる。その後ウラジオストクで立憲民主党員として革命運動に加わり、市議会議員などもつとめるかたわら、印刷・出版業に携わり、「ニコライ・アムールスキイ」、「グルホフカのハイネ」などのペンネームをもつ詩人でもあった。1919年に日本に亡命し、大阪、神戸でロシア語書籍の印刷・出版・販売業を営んだ。1941年に神戸で死去。
 マトヴェーエフは亡命後も精力的な執筆活動を続けた。彼は東京で白系ロシア人が発行していた月刊誌『ロシア極東』や論集『東洋にて 東洋諸民族の文化の諸問題を論ずる不定期叢書』(大衆堂書店、1935年)、中国・ハルビンで白系ロシア人が発行していた週刊誌『国境』や上海の雑誌『帆』、北京の月刊誌『ロシア評論』などに数多くの論稿を発表し、日本在住の白系ロシア人のなかでは外国に最もよく知られた著述家であった。
 今回紹介するのは、1933年の『帆』第17号に掲載された「まるで現代そっくり...」である。『帆』は文学・芸術・政治雑誌で、1931年から1939年まで全24号が発行された。編集・発行人はD.I.グストフで、他にO.スコピチェンコ、A.A.イワニーツカヤ、N.F.スヴェトローフ、N.N.イワニーツキイなどが編集に携わった。発行所は「亡命文庫」。グストフはオムスク協同組合連盟理事会員などをつとめ、右寄りの社会主義の立場を取って、反ボリシェヴィキ戦線を組織した。シベリア地方分離主義者で、1929年に上海に来た。著書に『ゴルゴダ 3幕プロローグ付の芝居』(「亡命文庫」出版社、1931年)がある。『帆』は上質の紙を使用し、美しい挿絵入りで、毎号平均40頁。シベリアの歴史から東洋諸国をテーマとした詩と散文にいたるまで、実にさまざまな内容の記事を載せた。詩ではA.アチャイール、A.ネスメーロフ、スコピチェンコ、M.コーロソワ、L.ハインドローワ、V.ヤンコフスカヤ、散文ではK.シェンドリコーワ、M.シチェルバコーフ、A.チョールヌィ、K.コローヴィン、B.ソロネヴィチ、I.ソロネヴィチらが作品を発表した。また太平洋をめぐる政治について少なからざる数の論文が掲載された。発行末期には完全に政治雑誌の様相を帯び、例えばグストフはある論文で上海におけるソ連の諜報活動について論じた。恐らくそれが引き金になったのだろう、1930年代末に彼はフランス軍によって中国の共産主義者たちに引き渡され、その後殺害されたものと思われる(1)。
 『帆』に掲載されたアムールスキイのエッセイは、訳者の知る限り以下の9本である。即ち、「日出る国にて」(第13/14号)、「鬼の子」(第15号)、「『イワン・イワーノヴィチ』」(第16号)、「日出る国にて 忘れ去られしロシア人墓地にて」(第16号)、「日本の過去より」(第17号)、「まるで現代そっくり...」(第17号、以上1933年)、「ジョンクロとうめ子」(第19号)、「日出る国にて この国の亡命ロシア人学校の歴史によせて」(第22号)、「昔の日本の詩(『百人一首』より「短歌」数首)」(第23号、以上1934年)。

 「箱館で我々はロシア人コロニーを見出した。それは僧侶階級、ロシア病院(2)付きの医師、領事、そして何がしかの身分でこの町に残された一人の海軍大尉(3)とその家族から成っていた。彼らはすべて互いにきわめて非友好的な関係にあった。彼らは互いに訪問し合わないばかりか、どこへも一緒に出かけなかったし、自分たちの間で共通のものを持たず、持とうともしなかった。我々は極東にうち捨てられたこれら不倶戴天の敵たちを、自分たちの輸送船に同時に招待することは決してできなかった。もし彼らのうちの一人が我々のところへ食事に来ると約束したら、同じ食事に自分の敵のうちの誰かが来ないかと必ず尋ねるのだった。外国での我が同国人の互いのこの敵意と反目に、時として私はどれほど驚いたことか。だがその後何年もたった後では、私はもはやこのことには驚かなかった。」
 「敵対し合うすべてのグループの間に良き関係と交流を保たせるために、我々は少なからぬ働きと巧妙さを必要とした。そしてもちろんのこと、仮に我々がもっと長く停泊していたとすれば、このような努力は無益だということが分かっただろう。まして我々の船に搭乗する敵が、宣教団の聖歌隊員たちに対して既に敵対行動を開始してしまったのだから。この人物はピョートル・Zh(この姓は印刷物では用いられない単語からつくられた(4))のロシアホテルの食堂で黒ビールの奪い合いで聖歌隊員の一人と喧嘩をし、その勇敢さと決断力にもかかわらず逃走して、「赤い館」(5)という名の国際会館に隠れることを余儀なくされた。これは巨大な3階建ての建物で、ヨーロッパの使節団の要求によってとりわけ船員たちの用途のために日本人によって建造されたものである。聖歌詠唱者は自分がひどく侮辱されたと思い、領事館から同僚を二人連れて来たが、それは善意ゆえのことではあるまい。しかしながら、わが医師は自分の大学で内科学と外科学の他に兵法学をも学んだものと思われる。階から階へと上りながら、彼は軽い木製の階段をすべて取り外して、引きずって運び、それによって攻め寄せる敵から〈渡河〉のあらゆる手段を奪い去り、それと同時に取り壊した壁板やベンチを彼らめがけて手当り次第に雨霰と投げつけた。我々は翌日になってようやくこの事件を知り、わが包囲された敵を無事に救出したのである。」...
 この特異な抜粋は、かつて有名だった船員ベロモール(6)(ペンネーム)の本の短編「ロシアの運送船の世界周航」から私が引いたものである。
 上で述べられているのはすべて1863年頃のこと、即ち70年前のことである。
 箱館港は、アメリカ及びヨーロッパ諸国(ロシアを含む)と締結した条約によって開かれた最初の三つの港のうちの一つだった(7)。
 当時、太平洋岸のロシアの主要港は、アムール川沿岸のニコラエフスク港だった。
 そのニコラエフスク港から一番近い、日本の開かれた港は箱館だった。
 これら二港の間に多少とも活発な関係が始まった。
 箱館にロシア領事館が設置された。数年間領事をつとめたのは、ゴンチャローフの『フリゲート艦パルラダ号』で有名なゴシケーヴィチである(8)。
 ゴシケーヴィチは『露和辞典』(9)を編纂したが、これは今では稀覯本となっている。
 60年代初頭に設けられた宣教団の長をつとめていたのは修道司祭ニコライ(10)、後の日本大主教である。
 この地に最初の正教会の教会が建立された(1863年)(11)。
 この地にホテルをつくったロシア人実業家さえ出現した。それはシェレメーチェフ公爵の僕婢ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフで、その妻はドイツ人だった(12)。この人物こそ「ピョートル・Zh」という下品なあだ名をつけられた当の本人である。
 またこの地の領事館には、後に長崎の領事をつとめたコスティリョーフ氏(13)がいた。
 この人物によって浩瀚な辞典と日本史(14)が編纂された...。
 領事館には海軍の見習い水夫出身の通訳マレンダ氏(15)がおり、彼は後に東京の公使館でかなりの出世を遂げた。
 要するに、簡単に名前を挙げただけでも、非凡ではあるが、しかしともかくよくお目にかかるような人々がいたことが分かる。...にもかかわらず、こちらの一味、あちらの一味という状態だったのである...。
 ベロモール氏の叙述は思わず我々の注意を惹き付ける。それは今日の情景とあまりにも似通っているではないか!
ニコライ・アムールスキイ  

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P.A.アレクセーエフの墓(横浜外人墓地)

 幕末に箱館に居留していたロシア人同士の関係が良好ではなかったことを、訳者はベロモールの記述によって初めて知った。またベロモールが描き出した幕末の箱館のロシア人コロニーの状況と、その70年後に異郷に暮らしていた亡命ロシア人社会の状況がそっくりだというマトヴェーエフの指摘も興味深い。
 本稿執筆に際し、檜山真一氏と柴田順吉氏からご教示を賜った。

<注>
(1)Bakich, Olga. Harbin Russian Imprints: Bibliography as History, 1898-1961: Materials for a Definitive Bibliography. New York: Norman Ross Publishing Inc., 2002, p. 187; Хисамутдинов А.А. Следующая остановка - Китай. Владивосток: Издательство ВГУЭС, 2003. С. 183; Печатные издания харбинской россики: Аннотированный библиографический указатель печатных изданий, вывезенных хабаровскими архивистами из Харбина в 1945 году. Хабаровск: Частная коллекция, 2003. С. 58; Кузнецова Т.В. Русская книга в Китае (1917-1949). Хабаровск: Дальневосточная государственная научная библиотека, 2003. С. 83, 219; Ван, Чжичэе. История русской эмиграции в Шанхае. М.: Русский путь, Библиотека-фонд 《Русское Зарубежье》, 2008. С. 438.
(2)ロシア領事館付属箱館病院は海軍病院で、医師も海軍省所属だった。1858年に亀田川河口左岸につくられ、敷地は400坪、うち病院(養生所)は24坪だった。梅毒、眼疾の治療では箱館市民をも無料で診察し、3人の日本人医師が常任医師M.P.アリブレヒトのもとで外国医学を学んだ。1861年に火災で焼失し、1863年に上大工町(現在ハリストス正教会のある元町3番13号)の領事館の東隣りに病院が新たに建設された。そしてアリブレヒトに代わってI.ザレスキイが院長をつとめた。後の同志社大学の創立者・新島襄は、箱館からアメリカへ密出国する直前にこの病院でザレスキイから眼疾の治療を受け、病院の優秀さと日本人患者に対する懇切な取り扱いをその『函楯紀行』に記している。これは、自国の科学知識を提供することで日本国民の心をつかみ、ロシアの影響力を確保するという、E.V.プチャーチン海軍中将の対日戦略の一環でもあった。1866年3月20日に本病院は焼失した。同年に病院は長崎に移転し、ザレスキイもその常任医師として転任した。谷澤尚一「幕末・箱館ロシア病院に関連する史料」、『地域史研究 はこだて』2、1985年8月、56-57頁。秋月俊幸「ロシア人の見た開港初期の函館」、『地域史研究 はこだて』3、1986年3月、24頁。ドナルド・キーン著、金関寿夫訳『続百代の過客 上 日記にみる日本人』朝日新聞社、1988年、285-286頁。『函館市史 通説編』第2巻、函館市、1990年、174-175頁。ニコライ・アムールスキー著、原暉之訳・解説「函館最初の写真師(在日ロシア人の生活から)」、『地域史研究 はこだて』23、1996年3月、104頁。伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009年、50-58頁。
(3)箱館ロシア領事館付武官P.M.コーステレフ海軍大尉(1833-1867)のことだろう。かつてクリミア戦争でセヴァストーポリ要塞防衛のために戦った人物で、P.N.ナジーモフ海軍大尉に替わって1862年に箱館に来た。後記ニコライはゴシケーヴィチ領事宛の書簡で、コーステレフが箱館のロシア人のほぼ全員と激しく衝突したことを伝えている。ベロモールの記述はこのあたりの事情を反映しているものと思われる。と同時にコーステレフの功績もあり、彼の箱館滞在時に「ディアーナ号」の大砲が弁天岬台場に設置された。また彼は箱館の「諸術調所」と思しき教育機関で日本人に天文学、航海術、造船術、砲術、築城術の基礎を教え、日本人の石工に命じてロシア人墓地に土盛りの墓の代わりに墓石を設置させた。コーステレフは1865年に箱館を去り、その2年後に亡くなった。別の資料によれば、1864-1866年に箱館居留となっている。『函館市史 通説編』第2巻、147頁 ; Гузанов В. Иеромонах. М.: Общество 《Россия-Япония》, 《Юго-Восток-сервис》, 2002. С. 118-119; Хисамутдинов А.А. Русские в Хакодате и на Хоккайдо, или заметки на полях. Владивосток: Издательство Дальневосточного университета, 2008. C. 163-165, 436.
(4)"Zh"はロシア語の卑語 "Zhopa"(「穴」)を意味する。
(5)下線は原文ゴシック体。外国人の要求により、1858年に官から金を貸して山ノ上遊郭内に建設させた外国人揚屋「山ノ上休憩所」のことだろう。『函館市史 通説編』第1巻、1980年、598頁。長崎でも1860年9月にロシア海軍の要請により、稲佐に「魯西亜マタロス休息所」が開設された。これは、地元の娘たちに梅毒検査を施した上でロシアの下級水兵向けに遊女として提供する遊興所である。赤ペンキ塗一色のこの和洋折衷の民営娼館を、ロシア海軍兵は「赤い館」、稲佐の住民はこのロシア語に基づいて「からすね・どうま」と訛称した。拙稿「「からすね・どうま」のこと」、『ロシア手帖』23、1986年12月、34-38頁。
(6)ベロモールの本名はA.E.コンキェヴィチ(1842-?)。海軍中佐、三等文官にして商工業省航海局長。1865年に箱館、1870年に長崎、1872年に横浜に来航。1880年代初頭から文筆活動を開始し、「A.ベロモール」(白海とバルト海を結ぶ運河名)のペンネームでペテルブルグの雑誌『ロシア通報』、『ロシアの往時』やロシア海軍省の機関誌『海事集録』にロシア極東艦隊や日露戦争の対馬沖の海戦に関するエッセイを発表、また『船乗りのための覚書』(ペテルブルグ、1907年)、『破滅前夜の旅順艦隊』(ペテルブルグ、R.ゴリケ・A.ヴィリボルグ、1908年)などの著書を公刊した。Библиография Японии: Литература, изданная в России с 1734 по 1917 г. М.: 《Наука》, Главная редакция восточной литературы, 1965. С. 155, 186, 196, 205; Болгурцев Б.Н.(сост.) Морской биографический справочник Дальнего Востока России и Русской Америки. Владивосток: 《Уссури》, 1998. С. 98-99. アムールスキイが引用した短編「ロシアの運送船の世界周航」については未確認。
(7)1855年2月7日(陰暦安政元年12月21日)に下田で日露和親条約が調印され、箱館、下田、長崎の3港をロシアに開港することとなった。
(8)ロシアの作家I.A.ゴンチャローフは遣日使節プチャーチン提督の秘書官として1853年に長崎に来航した。その旅行記が『フリゲート艦パルラダ号』(1858年)であり、そこには中国語通訳としてこの遠征に加わったI.A.ゴシケーヴィチも登場する。
   日露和親条約によって箱館、下田のいずれかにロシア領事を置くとされ、1858年に箱館に領事館が開設された。マトヴェーエフの言うように、この選択はロシア海軍と関係が深く、不凍港として兵員の休養、食料や資材の供給、軍艦の修理などに箱館港を利用したのである。ゴシケーヴィチ初代領事一行は1858年10月24日(安政5年9月30日)に箱館に到着し、最初は実行寺と高龍寺に分宿していたが、1860年に上大工町に領事館の建物が出来上がった。箱館の洋風建築第一号である。この工事を請け負ったのは、棟梁の忠次郎という人物である。同年に箱館を訪れたロシアの植物学者 K.I.マクシモーヴィチの日記の9月18日の項には、「町は港から始まり、悪いところではない。明らかに風変わりな建物がある。左端の高い所に君臨しているようなロシア領事館、魅力的な三階建、屋根のとんがりに領事館旗がはためいている。その左手に二階建がある。領事館医の白い家である。」とあり、ロシア語を学ぼうとする日本の子供たちのための学校が突貫工事で建設中であること、小さな礼拝堂が完成したことが記されている。その10日後に『ニューヨーク・トリビューン』紙通信員のフランシス・ホールが箱館を訪問したが、彼の日記にはこうある。「9月28日金曜日[中略]船が箱館港に近づくと、人目をひく白い建物、ロシア領事館が目に入った。[中略]翌29日[中略]甲板からは箱館の街がよく見えた。目立っているものは、白い建物の一群で、洋風の二階建てである。あれは何だろうと思っていると、ロシア軍艦の側面から煙りが巻きあがってきた。8時の空砲であった。すると軍艦と陸上の白い建物から一斉に正十字の旗(アンドレイ軍艦旗、革命前、ロシア軍艦の船尾につけられた)があらわれた―この北方海域にはロシア人たちがいるのである。」1865年2月に領事館の建物は火事で焼ける。1872年にロシア公使館が東京に設置されるにともない、翌年に領事館は閉鎖された。函館市船見町にロシア領事館が再建されるのは1906年のことである。秋月、前掲論文、23-24頁。『函館市史 通説編』第2巻、154-155、174-175頁。井上幸三『マクシモヴィッチと須川長之助―日露植物学界の交流史―』岩手植物の会、1996年、113、120頁。清水恵・A.トリョフスビャツキ「日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館―在ロシア史料より―」、『地域史研究 はこだて』25、1997年3月、87頁。清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』函館日ロ交流史研究会、2005年、28-29頁。
(9)正しくは『和魯通言比考』(ペテルブルグ、1857年)。
(10)俗名イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(1836-1912)。ペテルブルグ神学大学を卒業後、1861年7月2日(文久元年6月7日)にロシア領事館付司祭として箱館に赴任。修道司祭フィラレート、司祭V.マホフに次いで三人目である。1872年に東京に移り、1891年に神田駿河台に東京ハリストス復活大聖堂を建立した。1906年、大主教に昇叙。マトヴェーエフは箱館の教会でニコライから洗礼を授けられた。清水、前掲書、9-20頁。長縄光男『ニコライ堂遺聞』成文社、2007年、30-40頁。
(11)正確に言えば、1859年2月に、ロシア領事館として使われていた実行寺の境内に礼拝堂として建てられたのが、正教会の始まりである。1860年に上大工町に領事館が建設されるにともない、同地への移築工事が行われた。さらに1862年に拡張工事が行われた。建物としての聖堂の出来ばえは芳しいものではなかったが、外装や内装はかなり見栄えのするものに仕上がっていたようだ。この初代教会は1907年8月25日の函館大火で焼失した。ニコライ著、中村健之介訳編『明治の日本ハリストス正教会』教文館、1993年、145頁。廚川勇『函館ガンガン寺物語』北海道新聞社、1994年、77、79-80、84頁。『函館市史 都市・住文化編』、1995年、182-185頁。拙稿[解説・訳]「日本における正教の発祥地―函館市のロシア正教宣教師団最初の聖堂―」、『函館とロシアの交流 函館日ロ交流史研究会創立10周年記念誌』に所収、函館日ロ交流史研究会、2004年、65-72頁。長縄、前掲書、70-73頁。
(12)アレクセーエフは1832年にトゥヴェーリ県に生まれた農奴で、主人のA.A.コルニーロフに付き従って黒海艦隊のフリゲート艦「ウラジーミル号」に水兵として勤務。1858年9月に主人が艦長をつとめるクリッパー船「ジギッド号」で箱館に来た。この地でアレクセーエフは農奴身分から解放され、仲買人として日本の産品を買い付け、ロシア沿海州の諸港で売りさばいて富を築いた。1863年末に大町の埋め立て地・築島にホテル「ニコラエフスク」を建設すると、ロシア軍艦の乗組員たちが大挙して押し寄せた。このホテルの食堂は本邦初のロシア料理店でもあった。アレクセーエフは10等官の貴族の娘ソフィヤ・チェルノーワと結婚、式はニコライ司祭が執り行った。ソフィヤは1858年にゴシケーヴィチ夫人の下女としてベラルーシのポレーシエから箱館に来た。1871年にニコライが東京へ移転するに伴い、アレクセーエフもそれに同行したが、翌1872年10月26日に彼は風邪をこじらせて病死した。ホテルはソフィヤが引き継いだが、その後彼女は東京駐在のロシア公使K.V.ストルーヴェ家の子守りとなった。1880年12月28日、ロシアの作家V.クレストーフスキイが訪日時にロシア公使館で開かれた子供たちのクリスマス・パーティーで出会った、「もう20年ほど日本に住んでいて、この国の言葉をとても上手に話すかなり年配のロシア人乳母」とはソフィヤのことである。彼女は1882年に公使のワシントン赴任に伴い、一緒にアメリカへ渡った。箱館のロシアホテルは1883年に閉鎖された。『函館市史 通説編』第1巻、596-597頁。第2巻、161-163頁。ニコライ・アムールスキイ著、檜山真一訳「日本におけるロシア人召使」、『地域史研究 はこだて』18、1993年10月、92-94頁。ヴィターリー・グザーノフ著、左近毅訳『ロシアのサムライ』元就出版社、2001年、130-146頁。左近毅「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフのばあい―」、『異郷に生きる―来日ロシア人の足跡』に所収、成文社、2001年、63-75頁。清水、前掲書、66頁。中村健之介監修『宣教師ニコライの全日記』第2巻、教文館、2007年、101、113頁。Амурский Н. Русский дворовый человек в Японии. Дальневосточная звезда. 1910 г., № 3. С. 3-4; Гузанов В. Самурай в России. М.: "Япония сегодня", 1999. С. 81-92; Крестовский В. В дальних водах и странах. М.: Центрополиграф, 2002. С. 546; Гузанов. Иеромонах. С. 165-183; Дневники святого Николая Японского. Т. 2. СПб., Гиперион, 2004. С. 125, 140; Хисамутдинов. Русские в Хакодате и на Хоккайдо, или заметки на полях. C. 173-174, 429.
(13)V.Ia.コスティリョーフ(1848-1918)は1874年にペテルブルグ大学東洋学部支那・満州・蒙古学科を卒業し、翌年から1884年まで東京のロシア公使館の日本語研修生、1885年から1900年までは長崎のロシア領事館の領事をつとめた。その間1876年5月から2年間、東京外国語学校魯語科で教鞭を執った。1907年にペテルブルグ大学東洋学部日本学科の初代助教授となったが、在籍は一年のみである。渡辺雅司「東京外国語学校魯語科とナロードニキ精神―小島倉太郎の講義録をもとに―」、『ロシヤ語ロシヤ文学研究』15、1983年9月、10頁。渡辺雅司「旧東京外国語学校」、日本ロシア文学会編『日本人とロシア語 ロシア語教育の歴史』に所収、ナウカ、2000年、46頁。Lensen G.A. Russian Diplomatic and Consular Officials in East Asia. Tokyo: Sophia University, 1968, p. 32; Иванова Г.Д. Русские в Японии XIX - начала XX в. М.: 《Восточная литература》, 1993. С. 103-104; Гузанов В. Ради пользы России. Япония сегодня, май 1996 г. C. 27-29.
(14)「辞典」は、Русско-японский словарь разговорного языка. СПб., 1913, XLIII+1003 с.(『露和口語辞典』ペテルブルグ、1913年、XLIII+1003頁)である。「日本史」は、Очерк истории Японии. СПб., 1888, XXIV+446 с.(『日本史概説』ペテルブルグ、1888年、XXIV+446頁)である。
(15)スウェーデン系ロシア人A.マレンダは1864年から箱館に居住。1879-1885年には東京のロシア公使館の通訳をつとめた。1886年または1887年に没。ニコライは覚え書で、宣教団にとって有害な人物だったと彼を罵っている。マレンダと日本人女性との間にできた私生児エカテリーナ(日本名・春子)は、正教徒の漢学者・中井木莵麿の養女となり、日本正教会の女子神学校を卒業後は同校の助教師をつとめ、神学校の教師・ペトル内山彼得に嫁いだ。『函館市史 通説編』第2巻、147頁。『宣教師ニコライの全日記』第4巻、33、119頁。第6巻、281頁。第7巻、81頁。第8巻、269頁。第9巻、274頁。Lensen. Op. cit., p. 36; Дневники святого Николая Японского. Т. 3. С. 117-118, 221; Т. 4. С. 474, 586; Т. 5. С. 331-332, 827.