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講演会報告要旨 『浦潮日報』と在留日本人の足跡

2012年4月21日 Posted in 函館-ウラジオストク交流の諸相

 橋本哲哉(金沢大学名誉教授)

はじめに
 1990年代以降全国の大学の国際化が顕著となり、学術交流・留学生交流が大きく進展した。日本海側の大学はとくに対岸交流を意識し、金沢大学もその流れに沿って大学間交流を推し進めた。私の所属していた経済学部はロシア極東・シベリアの大学との交流、具体的には極東国立総合大学、当時のイルクーツク経済アカデミーを相手校として、専ら研究者や留学生の受け入れに努めた。その交流の過程で、私の専門分野(日本近現代史)の関係史料である邦字新聞『浦潮日報』(以下、「日報」と略す場合がある)の存在を知り、以降その収集と分析を続けてきた。
 本稿は、2010年(平成22)10月に函館で開催されたウラジオストク建都150周年記念講演会における報告を、紙数の関係から一部省略して取りまとめたものである。報告と論文執筆の機会を与えて下さった函館日ロ交流史研究会の関係者の皆さんに、この場を借りて改めて御礼を申し述べる。

Ⅰ 『浦潮日報』の探索
 日ロ学術交流を進める中で、ロシアだけでなく、従来とは異なった分野の国内研究者の知己を得た。後述するような豊富な交流情報、在留日本人情報を有した「日報」の存在に気づいたのはそのお陰で、幸運にもまず最初に福井県敦賀市立図書館所蔵の創刊号(1917年12月7日付)以下にめぐり合うことができた。日本のシベリア出兵開始直前から50号分ほどで、図書館寄贈者「上田」というお名前を頼りに若干の現地調査を行ったが、それ以上は確認できなかった。「日報」中に国内唯一の支局として「敦賀市大島町上田貞聚」という記載があり、寄贈者はおそらくその関係者と思われる。ともあれ「日報」の支局が存在したことは、当時敦賀が対岸への窓口港であった証左といえよう。
 新聞・雑誌研究で創刊号は重要な位置を占めており、「日報」創刊号を手がかりに探索と研究に取り組んだ。これも後述するように最終号は1931年(昭和6)3500号前後と推定されるので、その前半はシベリア出兵の時期と重なっていた。シベリア出兵に関しては、原暉之『シベリア出兵』(1989年6月)を頂点とした諸研究に学んだが、同時代の浦潮斯徳、露領亜細亜の日本語情報も多岐にわたり、読み応えがあった(一例として、松浦充美『東露要港浦潮斯徳』東京堂 1897年10月)。原暉之『ウラジオストク物語』(1998年9月)も、重要文献として紹介しておかなければならない。ウラジオストク開放後の日本語文献は堀江満智『遥かなる浦潮』(新風書房 2002年1月)をはじめ相当数をかぞえる。これらのなかには、部分的にせよ「日報」の記事が活用されていることを確認した。
 探索の傍ら、1990年代前半に国会図書館が収集した「日報」を含めて分析し、未熟ではあるが2つの論文を執筆したので注記を参照願いたい(1)。その後ロシア・サンクトペテルブルグの図書館所蔵号の大量のコピーを入手し、さらに函館市中央図書館の所蔵号にも接することができた。現在までに収集できた「日報」をもとに、可能な限りその全容を明らかにし、当該時期におけるウラジオストク在留日本人の足跡をたどってみよう。

Ⅱ 『浦潮日報』と在留日本人
a)『浦潮日報』の所在
 これまでに収集した「日報」の号数(発行年月日)、所蔵図書館を表1に取りまとめた。いずれもコピーとして手元にあるが、A3紙の複写とDVD複写とが混在している。
 創刊号は1917年(大正6)12月9日付、以降函館市中央図書館蔵と合せると303号(1918年12月28日付)までがまず確認できる。シベリア出兵当初における日本軍のウラジオストク上陸は翌18年4月5日であるので、その直前に発行が開始されたわけである。1919年以降2年半660号分ほどは、本格的なシベリア出兵期に当たるが、残念ながらその期間の「日報」を入手できていない。その後国会図書館蔵、函館市中央図書館蔵分と続き、ロシアよりマイクロフィルムで入手した「日報」の最終は1930年末の3345号である。表1に明示した号数の内には若干の欠号が含まれているので、おおよそ2200号分、約13年分の所在が判明しており、その全号の内容を確認している。
 以下少しだけコメントを付け加える。「日報」発行までの経緯は創刊号に詳しい。ロシア革命後「言論出版結社の自由」が認められたのを機に、和泉良之助主幹が尽力して浦潮日報社がまず創立された。在留日本人への情報提供を目指し、「日露両国民相互の理解」と親善、「我国我同胞に無形の統一と進歩」を目的とするとその社是を謳っている。創刊は印刷機類が整わず、また妨害もあり難産だったようだが、その後は順調に号を重ね、1000号まで1285日(1921年6月21日)、2000号発行も同じく1285日目(1924年12月20日)に迎えている。実に週5日平均で発行されていた計算になる。しかし欠号はシベリア出兵後半の重要部分で、また尼港事件の年の号も未見である。最終号について正確にはわからないが、最後まで残留していた主筆高井邦彦が和泉良之助宛1931年の賀状で「『浦潮日報』は到々、約三千五百号を以て閉鎖の止むなきに至りました」(2)と書き送っている。収集した「日報」の最終は3345号(1930年末)であるので、翌31年後半あたりが終刊時期ではなかろうか。とすると、手元にある約2200号分は全体の3分の2弱という計算になり、残り3分の1の「日報」の収集に今後も努める必要がある。

表1 『浦潮日報』の所在
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b)『浦潮日報』の記事概要
 「日報」の紙面がどのような記事で構成されていたのか、次の表2をご覧願いたい。もちろん全ての号がこのような紙面であったわけではなく、通常は4頁建てだが10頁を超える特集号もあれば、3000号近くなると2頁のさびしい紙面も見られる。1000号前後が最盛期で記事・広告量も豊富であった。3000号前後では記事自体も減少するが、週4号は発行され、日本軍撤退後約10年間も継続されたことは驚異的であった。
 社説・論説は和泉が社是を基調として専ら書いていて、その主要なものは表2中に示した2冊の単行本になっている(3)。和泉が「一騎当千の人材」と評した有力記者山内封介(4)・中山貞雄・広岡光治・池田寿・高井らも一部執筆していたようで、1922年和泉が帰国した後は終刊まで高井が主筆を務めて「日報」の灯を守ったと思われる。
 表2中の<ロシア・ソ連に関する情報>から<日本の情報>までは在留日本人への重要な情報提供で、ロシア・ソ連国内はもとより国際情勢、日本国内の政治・社会関連ニュース等と多岐にわたった。主として電話を通じての情報収集力は速報性を有し、また在留日本軍の動向も時折紙面を飾り、「日報」の特徴をよく示している。広告は大半がウラジオストクで開業する商店のもので、住所が載っていてそれをもとに在留日本人商店の地図が復元され、かつ研究されている(5)。
 <いわゆる雑報類>は在留日本人の足跡をたどるという意味では重要な情報を残しているといえよう。その若干の分析は後述するが、ここが在留日本人のひとつの交流の場であったに違いない。運動会開催や郊外へのピクニックは定期的に行われていたようで、大切な交流行事であった。野球大会が頻繁に開催されていたこともわかる。しかしながら在留日本人社会全体を報道していたわけではなく、例えば「北のからゆきさん」と呼ばれて多数存在した娼妓や妓楼・楼主などの社会の裏面に記事は必ずしも及んではいない。
 総じて見るならば、当時の日本国内の新聞、さらに言えば現在の新聞と紙面の基本的構成は一致していた。それは和泉をはじめ記者達が国内の新聞の記者を経験し、あるいは関係者であったからだろう。

c)和泉良之助と浦潮日報社
 社長・主幹として文字通り浦潮日報社の中心だった和泉良之助には、注(2)に示した伝記がある。それによると東京外国語学校で二葉亭四迷、スパルウィン(6)などに学び、日露戦争時の日本軍通訳を経て1907年(明治40)よりウラジオストクで活動をはじめた。46歳の時、私財を投じて1917年末の創刊号発行の7ヶ月前に社を設立した。「日報」だけでなく、社の様々な活動を牽引した後、1922年10月日本軍撤退の際に多くの在留日本人と共に帰国。その後、東京で大阪毎日新聞の嘱託記者を務めたが、1925年に退社、引退した。これがおおよそ和泉の伝記の述べるところである。
 しかし「日報」の記事を見てゆくと、1924年以降、和泉の名前が要人の送迎、総領事館行事参加者名簿などに登場し、さらに同25年3月、民会新議員に10票を得て高位当選している。何らかの理由で再びウラジオストクに戻り、和泉は少なくとも26年までは滞在していたと思われる。偶然の一致だが、1931年「日報」終刊の年に東京で和泉は死去した。
 1928年(昭和3)10月16日付の第2854号は「本紙発行十一週年」の特集号であるが、その歴史を回顧して、1921・2年の「日報」の全盛期、「邦字紙一萬五千、露字紙四萬部刊行」し、「社員八十三名、雇員を合すれば百十数名に上り株式配当五割といふ成績であった」と記している。邦字の「日報」発行数は当時の在留日本人数をはるかに上回っているので、シベリア出兵軍にも供給されていたと推定される。1000号の記念紙には社員の記念写真が掲載されていて、約50名を確認することができる。和泉はもちろん山内をはじめ「一騎当千」の記者も顔を連ねていて、「日報」の勢いを感じさせる写真である。露字紙については後述する。

表2 『浦潮日報』の記事概要
「浦潮日報」は特別号を除いて基本は4頁建て(タブロイド版)、1頁の大きさはほぼA3版。
<社説・論説>
編集主幹和泉良之助が専ら執筆していたが、有力記者の山内封介(『シベリア秘史』の著者)・中島貞雄・広岡光治なども一部執筆していた可能性がある。和泉の帰国後は高井邦彦が終刊まで主幹であったようだが、その時期社説・論説は減少した。高井に関してはまだ不明な部分が多い。
<ロシア・ソ連に関する情報>
 * ウラジオストク内の政府・市会など政治的ニュース、いわゆる3面記事、港湾出入情報
 * シベリア・極東の社会情報(革命動向も)、農林・鉱工・商業関係(とくに作況、資源、物価情報)
 * モスクワ情報=いわゆる「露都電」(冷忍・泥附からやがてレニン・トロツキヘ)
 * ロシア語新聞の抄訳~ソ連・社会主義に関する諸情報
<極東・日本をめぐる国際情勢、関連する軍事情報、欧米事情>
 * シベリア出兵、パルチザン動向、革命情勢など
 * 極東共和国や対立する諸勢力との抗争などの情報
 * 日露間交渉の経過、例えば長春会議など
 * 浦潮日報特派員のレポート、例えば大連会議、事件1年後の尼港
  * 欧米の諸国事情、シベリア鉄道利用の欧米人情報
 * 中国、特に「満州」、関東軍の情報
<日本の情報>
 * 日本の政治・経済・社会情報で、東京・大阪発の記事を要約
  * 極東ロシア・シベリア、ウラジオストク情勢に対する軍部の対応・姿勢、軍部の人事
 * 地方の事故、災害、大火などの情報、残念ながら函館についての記事は未見
<ロシア特派員情報>
  大竹博吉(紙上で一定の影響力を示していた)、大庭柯公など
<いわゆる雑報類> この項は、現在ウラジオストクで発行されている「浦潮瓦版」に類似
 * 私小説、随筆、短歌・俳句・詩、投稿写真、小学生の作文
 * 集会、運動会・ピクニック、演芸会、野球・武道・卓球大会等、合同新年会、
 * 総領事館、居留民会(「民会報」が定期発行、その抄報)・民会選挙に関する情報
 * 小学校関係(行事参加呼びかけ、募金要請など)、本願寺、キリスト教会行事
 * 在留日本人の人物紹介
 * 出入日本人情報(鳳山丸を中心とした)、シベリア鉄道乗降客
<連載小説>
  歴史物で、例えば「享保妖魔伝」「関東侠客赤城丹蔵」
<広告>
在留日本人の活動や所在を知るうえで、取扱商品、住所、電話番号など重要な手がかりを提供、現存では唯一?ヴェルサイユホテルの広告も~在留日本人街の地図作成の手がかり

d)ウラジオストクの在留日本人の足跡
 以上『浦潮日報』の概要を簡単に整理したが、「日報」は在留日本人への情報提供紙で、かつその諸活動の記録であったといえよう。後者に関してもう少し言及しておこう。ウラジオストクの在留日本人数の動向は注(1)の論文を参照願いたい。『日本帝国統計年鑑』の公式統計で、実数はそれより多かったと推定されるが、シベリア出兵以前は2~3千人、最多は1919年の約6千人(実数は約8千人)、日本軍撤退後は700人と急減している。この在留日本人の組織が居留民会で、東シベリアを含むロシア極東には1917年の段階で14(ニコリスク・イマン・ハバロフスク・チタ・ブラゴウェシチェンスク・ラズドーリノエ・アレクセーフスク・ネルチェンスク・ウェルフネウージンスク・アレクサンドロフスキー・ステレチェンスク・ゼーヤ・イルクーツク、以上「日報」の第2号の広告掲載、これにウラジオストクを加える)が確認できる。他にも存在したであろう居留民会を含めて、きわめて多くの地域に日本人の活動が展開されていたわけである。
 浦潮斯徳居留民会については原前掲書『ウラジオストク物語』に詳しい。同盟会・同胞会を経て1902年(明治35)に発足し、在留日本人を職種別に組織した互助団体であった。その職種別部は商業部・医師部・裁縫部・旅館部・金銀時計細工部・理髪部・大工部・製靴部など14部で構成されていた。従って在留日本人の大半は商工業に従事していたといってよい。民会の仕事は「旅券業務等で、日露両国官憲とのパイプ役となるほか、居留民会内部の紛争の仲裁から、児童の教育、郵便物取扱、慈善救済事業にいたるまで、多岐にわたった」(7)。この仕事の具体的な活動が「日報」紙上に数多く予告され、また報告されたのである。
 「日報」中の民会関連記事で目立つのは「民会報」の抄録である。定期的に発行されており、民会の活動を最もよく示した資料と思われるが、「民会報」自体は残念ながら未発見である。前掲『遥かなる浦潮』の著者堀江満智氏の祖父直造氏は一時民会会頭をつとめており、同書にも民会に関連する記述がある。
 表2の「在留日本人の人物紹介」に該当する具体例を示しておく。この類は度々「日報」に登場する企画で似顔絵付きもあるが、ここで見るのは第2485号(1927年1月1日)から始まる「僕の眼に写った浦潮名士の面影」(途中から名士が名流に替わるが)で、第2546号(同年4月20日)までの31回分、「日報」最後の企画となった。
 第1回の脇深文居留民会会頭は「謹厳の内に人情味豊か」、「薫もあり実もある名演説」、「難局の現状を処する」のに「好適任者」、続いて今西儀太郎は今西商会を経営し、漁業を通じて「露領発展史に特筆される人物」、石田又次は鈴木商店の関係者で、博識かつ「正宗の銘刀を思はせる」論客といった具合で、川崎商船の関係者、鐘ヶ江商店主、田中時計店主など総勢50名ほどが登場する。いずれもウラジオストクで商売や営業活動に携わっており、日本軍撤退後在留日本人の数が減少した中で、その様子を記録していて貴重である。

Ⅲ 『浦潮日報』をめぐる若干の論点
 最後に『浦潮日報』をめぐる若干の論点に関して私見を述べ、まとめにかえたいと思う。
 「日報」に関しては、シベリア出兵中の「日本軍憲」の「広報紙」(8)という評価がすでに提出されている。たしかに露字版は特務機関の工作のもとに、そうした役割を担っていた可能性があり、新聞報道をめぐって和泉は何回か当局に拘束されている。この露字版については未見で、今後の検討を待ちたい。しかし、上述したように少なくとも「日報」の邦字版は「在留日本人への情報提供紙で、かつその諸活動の記録」と位置づける。全体を通じて、社是である「日露両国民相互の理解」と「我国我同胞に無形の統一と進歩」を守り抜いたと考える。その象徴的な事例は、1922年に3回にわたって行われた「居留民大会」の報道とその大会成功に向けての和泉をはじめとした記者の活躍を指摘したい。とくに5月14日開催の第1回大会の大会宣言(9)は、この段階における在留日本人の総意を表していた。即ち日本軍のシベリア駐留が長期にわたったため、在留日本人は「極度ノ窮境ニ陥ッタ」とし、撤兵・駐兵いずれの場合にも困難は予想されるが、日本軍は「早晩引揚ゲザルヲ得ナイ」と認識したうえで、撤兵後の「対露貿易恢復」を展望するという内容である。当日の大会席上、和泉と山内等記者はこの方向での発言を強調しているのである。「日報」は在留日本人社会の世論形成に、大きな役割を果していたと考える。
 和泉良之助の評価を最後に少し論じておく。『浦潮日報』を通じて在留日本人社会の世論をリードしてきたわけであるが、彼の思想的バックボーンはどのようなものであったのだろうか。この点は和泉の2著に加えて「日報」紙上の論説全体を確定したうえで論ずる必要があり、ここでは大竹博吉・大庭柯公の影響を指摘するにとどめる(10)。このふたりの動向や記事は「日報」に度々登場し、とくに大竹はソ連の現状および社会主義に関しての論説を寄せている。シベリア出兵期は日本国内では大正デモクラシーの展開期と重なっていたが、大正デモクラシーの中でのジャーナリストの位置と役割を私は評価している。大竹・大庭はその一員であったと考えているが、和泉は大竹と日本帰国後も親密な交際を続けており、こうした点も含めた和泉良之助論は別に論じたいと思う。
 和泉に関してもうひとつ指摘しておきたい点がある。「日報」と彼の行動の中に、ウラジオストクにこだわり、愛着を持ち続けた姿を見るからである。前述したように彼の「伝記」の記述とは異なり、日本軍撤兵と共に帰国して安住の場を得たにもかかわらず、再びウラジオストクに舞い戻っている。居留民大会で自らが主張した「撤兵後」の現地の状況を確かめたかったのだろうが、そこにウラジオストクへの並々ならぬ和泉の愛着を感ずる。このことは立場、対象地域がことなるが、島田元太郎にも共通するのではなかろうか。たまたま帰国していて島田は尼港事件(1920年3月~5月)には遭遇しなかったが、ほとぼりが冷めるとニコラエフスクに戻り、困難な中で島田商会の再興を試みるのである(11)。和泉のこだわりと共通するが、この両地域を含む「露領亜細亜」が日本人にとってどのような地域と映っていたのか、『浦潮日報』の探索を続けながら考えてみたいと思っている。

<注>
(1)「『浦潮日報』の成立と「シベリア出兵」」(『金沢大学経済学部論集』12-2、1992年3月)と「「シベリア出兵期」における『浦潮日報』」(古厩忠夫編『東北アジア史の再発見』有信堂、1994年5月)。またこれとは別に、『浦潮日報』を分析した論文として、サヴェリエフ・イゴリ「日本語新聞『浦潮日報』とウラジオストックの日本人移民」(『移民研究年報』第2号 1996年3月)も紹介しておく。
(2)『和泉良之助』(桧山邦祐著 サンケイ新聞生活情報センター 1981年3月)3頁。
(3)『極東の変局』(磯部甲陽堂 1919年10月)及び『極東共和国まで』(1922年6月 浦潮日報社)
(4)有力記者にはいずれも著書などがあるが、山内封介『シベリア秘史』(日本評論社出版部 1923年3月)のみを紹介する。山内は戦後も翻訳などの活動をしている。
(5)戸沼幸市『戦前の極東ロシアにおける日本人居留地の空間的特質と生活様式に関する研究』科学研究費(一般研究C) 1997年1月
(6)和泉がウラジオストクで活躍中に、スパルウィンは東洋学院教授をつとめていて、同地で再び両者の交流が行われた。和泉を「二つの偉大な国民に誠実で率直な仲介者としての偉大な使命を果したジャーナリスト」(『横眼で見た日本』新潮社 1931年10月 95頁)と評している。
(7)原暉之『ウラジオストク物語』(三省堂 1998年9月)256~7頁。原の指摘以外の活動として西本願寺布教支援を加えておく(太田覚眠『露西亜物語』1925年4月、『浦潮本願寺記念誌』2001年11月)。また民会のロシアで果たした特殊な役割について、石光真清『誰のために』も参照。
(8)原暉之『シベリア出兵』(筑摩書房 1989年6月)548頁。ここでは当時の特務機関大尉樋口季一郎の証言『アッツ・キスカ軍司令官の回想録』の引用がなされている。なお前掲サヴェリエフ論文も参照。
(9)『浦潮日報』第1265号(1922年5月16日付)
(10)大竹博吉『遺稿と追憶』大竹会 1961年2月、大庭柯公『柯公全集』柯公全集刊行会 1925年6月、この全集の第3巻は有名な『露国及び露人研究』で、中公文庫版がある。柯公は革命後のロシアを旅行中の1924年に行方不明となる(久米茂『消えた新聞記者』雪書房 1968年10月)。
(11)森川正七『北海の男―島田元太郎の生涯―』私家版 1979年1月。島田と島田商会の動向は『浦潮日報』に時折登場する。