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キューバから生まれ故郷函館にもどって

2012年4月26日 Posted in 函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて

オリガ・ズヴェーレヴァ

 今日は!オルガ・ズヴェレヴァと申します。私は1940年7月にここ函館の松風町で生まれました。現在はキューバに住んでいます。今日は函館日ロ交流史研究会のお招きで生まれ故郷の函館に帰って参りました。4年前に研究会の招待で函館に参りました姉のガリーナに続いて函館にくることができて、とてもうれしいです。
 今日は昔の私をご存知の方もお見えになっておりますが、私の家族と私のことを少しお話いたします。
 私の両親は1917年のロシアの十月革命で故郷を逃れて日本に亡命した白系ロシア人でした。父は、1887年にウラル山脈の西にあるペルミ県で生まれました。父の家族のことや故郷のことは何も知りません。父は1914年に第一次大戦が始まると徴兵されてドイツと戦い、負傷して捕虜になり除隊して故郷に帰りました。1917年に革命が起こると、革命に反対する白軍に徴用され、コルチャーク将軍やセミョーノフの軍で戦いましたが赤軍に敗れ、1922年頃、中国のハルビンに逃れました。ハルビンは東清鉄道を建設するためにロシアが創った街でロシア人が大勢住んでいました。父がハルビンでどのような暮らしをしていたかはわかりません。
 一方、私の母は、1900年、同じくペルミ県の農家に生まれました。祖父はセレドニャークと呼ばれる中農でしたが、革命で殺されそうになり、1人ハルビンに逃れました。祖母と母と弟はハルビンの祖父を追いましたが、途中、シベリアで祖母はチフスで亡くなり、母は10歳下の弟を連れてやっとの思いでハルビンの祖父のもとにたどりつきました。ハルビンでは、祖父は御者、母はメイドなどをして生計を立てていたそうです。
 革命でハルビンのロシア人の人口が増えただけでなく、1924年には中国とソ連の間で中ソ協定が結ばれたため、亡命ロシア人が住みにくくなり、さらによその国へ移住する人が増えました。そんな中で、おそらく、ペルミ出身の人たちはいっしょに日本への亡命を決意したのだと思います。母はハルビンで同郷のウォルコフという人と結婚して日本にきましたが、父や母がいつ日本にきたかははっきりわかりません。野球選手のスタルヒンさんもペルミ出身で彼は両親といっしょに1925年9月に日本にきたことが分かっています。
 父は日本にきて最初、室蘭に住んでいました。母は札幌に住んで、1925年、娘が生まれヴェラと名づけられましたが1歳でチフスで亡くなり、翌1927年には夫のウォルコフもチフスで亡くなりました。今、2人のお墓は札幌郊外の里塚霊園にあるそうです。夫の死後、1929年に母は父と再婚し、室蘭で新しい生活を始めました。1930年に長女タチアナ、1931年に長男ミハイル、1932年に次男アレクセイが生まれました。1933年に家族は函館に転居し、大門通りに喫茶店「ボルガ」を開店し、次女ガリーナが生まれました。しかし、翌年、函館の大火で罹災し、松風町に移って、洋服小間物店「ボルガ」を開店しました(編注-小山内道子さんがオリガの姉ガリーナに聞いたところでは、洋服小間物店の名前は「ボルガ」ではなく「コジマ」(名前のクジマーがその由来)。この後、母は、弟が病死して1人ハルビンに残っていた祖父を函館に呼びました。1938年に3女ナジェジーダ、1940年に4女オリガつまり末っ子の私が生まれました。
 ここまでは私が生まれる前のことで、みな聞いた話ですが、小山内さんの報告で初めて知ったことも沢山ありました。母に聞いた事がありますが、彼女の話では、亡命者の間ではあまり過去については聞かない事になっていたらしいです。それは、きっと亡命者は各自みんな色々な過去を背負っていて、逃れて来た所の事や残して来なければならなかった自分の家族について、自分の過去について話すのが辛かったのかも知れません。
 私が生まれた頃、上の兄姉たちは、東京のニコライ堂の境内にあったロシア人初等学校で寄宿生活をしていて、休みの時だけ帰ってきました。兄姉達は私が7月に生まれた事をとても喜びました。それは彼等が家にいる時に私の誕生日パーティーがあるからでした。しかし、1941年12月には太平洋戦争がはじまったので、2回か3回しか私の誕生日パーティーに参加する事が出来ませんでした。兄姉たちがそこを卒業して横浜のインターナショナルスクールに通いはじめた1942年に、母は、父と祖父を函館に残して、横浜に家を借り子供たちと生活をはじめました。1943年の1月に、父がスパイ容疑で逮捕され、札幌刑務所に収監されました。この事件については、小山内さんが詳しく書いてくださっていますが、今にして思えば、戦時中の典型的冤罪事件だったのではないかと思います。戦争で横浜のインターナショナルスクールも閉鎖され、このまま、子供たちを日本国内においておくことを心配して、母は上の4人の兄姉を大連のロシア人中学校(ギムナジア)に送りだしました。翌1944年1月7日に父が刑務所で亡くなりました。56歳でした。父のお墓は函館のロシア人墓地にあります。私は父を全然覚えていません。ただ、お葬式の日、1月だったので、とても寒くて、誰かの肩の上に乗せられて、元町の下の方から坂を見上げている場面を今でも思い出す事がありますが、実際にその思い出はお葬式の時かどうか、余りはっきりしていません。もしかしたら、命日だったのかもしれません。
 戦争の事については余りよく覚えていませんが、函館の空襲は覚えています。それはもう戦争の終わりに近かったからだと思います。空襲がひどくなった時、母は姉と私を自転車に乗せて湯川の私の名付け親(代母)のクラフツォフさんのところに疎開させ、そこの家の倉庫を借りて、一時住みました。祖父は松風町に留守番の為に残り、母は松風町と湯川を行き来していました。湯川の家は丘の上にあったので、冬になると、そこから橇で滑り降りるのは素適だった事を覚えています。その近くに日本の女性と結婚していたロシア人(サファイロフさん)が住んでいた事を覚えています。彼はグスベリを栽培していて美味しい砂糖漬けを作っていたようです。とても親切で教養のある人で、彼の奥さんは病気だったと思います。その後、姉のナジェジーダが学校に入る為、母と一緒に松風町にもどり、私は1人とり残されました。とても寂しくて、悲しかったことを今でも覚えています。その後、母が会いに来た時、私が母にすがりついて泣いたので、母は置いて行くのが可哀相になり、家へ連れて帰ったと言っていました。
 戦争が終わった時、父は亡くなり、大連の兄姉との連絡もできなくなり、母と祖父と直ぐ上の姉ナジェジーダと私が函館に残されました。私と姉はいつもいつも上の兄姉が帰って来るのを待っていました。父が亡くなった事は知っていましたが、時々、何かの間違いで、まだ生きていたら、どうだろうか、と想像したりしました。戦後は、みんなとても辛い時で大変でした。松風町には父が残した洋服屋がありましたが、その店は古い物しかなく、利益が殆どなかったので、母は家を留守にして商いによく出ました。その時の寂しくて待ち遠しくて、たまらなかった事を今でも思い出します。我慢できなくなった時は港まで行って青森から来る船を待って、その船に母が乗って来たか確かめました。家には風呂がありましたが、なぜか、それを使わないで、家族揃って家の前にあったお風呂屋さんに行きました。家の前ですからとても便利でした。ある日、お風呂に入った後、お腹がすいて、力が全然なくなったので、母に抱かれて帰ったのを覚えています。きっと食料が少なかったのではないでしょうか。今になって、その頃の生活がどんなに苦しかったか、分かるような気がします。小さかった時、日本の下駄がとても欲しかった事を覚えています。私の下駄は祖父が木の板を私の足に合わせて彫って、その上に鼻緒代わりに皮を取り付けた物でした。家には一足の靴がありましたが、その靴は教会に行く時とか、訪問する時だけ履きました。
 戦後、私は兄姉と同じく大谷幼稚園に入園し、新川小学校に入学しました。幼稚園や学校から帰ると、いつも外で近所の友達と遊んでいました。私の母はいつも日本人は子供に優しいからと安心して、外で遊ばせてくれました。色々な事がありましたが、函館での少女時代はとても楽しかったです。家にはいつも自転車があって、それに乗って、函館中を乗り回りました。その頃は自動車が少なかったから、今のように危なくなかったのです。近くにあった巴座という芝居小屋や映画館には姉や友達と裏から入って見物しました。相撲や野球、競馬を見に行ったことを覚えています。その頃の子供の楽しみは紙芝居でした。そしてメンコやビー玉、ゴムとびなど外で色々な遊びをしました。ヴィクトル・スタルヒンが函館に来た時は、必ず家に来て、私達は母に買って貰えなかったお菓子を買って貰いました。随分甘やかして下さいました。母は父が生きていた時、いつもヴィクトル・スタルヒンを可愛がったと言っていました。それはヴィクトルも父親を亡くしたからです。
 私が9歳の頃、母は横浜にあったサンモール・インターナショナルスクールという修道女の女学校に私を入れました。その時までは新川小学校に通っていたので、英語は全然出来ませんでした。その学校では何から何まで英語だったので、随分泣かされました。すぐ上の姉は1、2年前に横浜で勉強していましたが、その時はサンモールは戦争で焼けて再建中だったので、セント・ジョセフ・インターナショナルスクールで一学年をやりました。セント・ジョセフの先生の修道士はほとんど日本語を知っていたので、生徒が分からない時は日本語で説明してくれたので、姉は私のように苦労しませんでした。横浜の学校に通っていた間、私と姉は東京のロシア人の知り合いのコイチェフさんの家に預けられました。コイチェフさんは、御茶ノ水のニコライ堂の南側の以前、ロシア人初等学校があった建物に住んでいました。建物の2階にはロシア正教の教会がありました。そこから横浜まで通うのは大変でした。朝早く家を出なければなりませんでしたし、帰りは遅くなりました。そこには色々な国の子供がいましたが、私はロシア人で、英語が出来なくて、いつも差別されていました。今でもその頃の辛さを思い出す事があります。よくそのような体験のない大人は、子供は簡単に言葉を覚えるからそのままほっとけばいい、と言うのをよく聞きますが、私は自分の体験でそうでない事を知っています。勿論、子供の方が大人と比べれば覚えるのは速いですが、その子供をいきなりその子が知らない言葉の学校に入れる場合は必ず手伝わなければなりません。昼食は弁当を持って行きましたが、私は好き嫌いがひどく殆ど食べなかったので、病気になり、母が来て私を函館に連れて帰りました。結核のおそれがあったので、母は出来るだけ栄養のある物を私に与える為に随分苦労したと思います。その頃はペニシリンがなかったので、休養と栄養を沢山取る事が重要だと考えられていました。
 1年間ぐらい病気のため学校を休んで自宅療養し、その後4年生から今度は大森小学校に通いました。1954年に大森小学校を卒業し、遺愛女学院に入学しましたが、9月に東京に引越しました。
 東京では落合に住んでいました。そして、経堂にある恵泉女学園に入り、中学1年の秋から高校1年の夏まで通いました。毎日目白から新宿に出て、そこで小田急線に乗って経堂まで通っていました。とても楽しい時代でした。その頃、現在、駒込のロシア正教会駐日代表部教会のある場所にロシア人のクラブがあって、そこに色々なサークルがありました。私はそこでロシア語を習ったり、マンドリーナの弾き方をならったり、コーラスに参加したり、演劇をやったりしました。それから、そこでソ連の事情の情報を貰ったりしました。その結果、私は社会主義は素晴らしい社会システムだと考えるようになりました。そして、中国からソ連に渡った兄弟姉妹に会う為には、ソ連に帰らなければならない事もよく理解していました。母は自分の子供に会う為にソ連に帰る決心をして、1956年にソ連国籍を取得し、高校を卒業した姉のナジェジーダをまずソ連に送り、母と祖父と私は1957年9月にソ連に帰りました。一番難しかったのは私の祖父をソ連に帰るように口説く事でしたが、最後に祖父も自分の孫達に会いたかったからソ連に帰る決心をしたと思います。
 1957年夏にモスクワで青年同盟のフェスティバルがあり、日本からそのフェスティバルに参加した日本青年同盟の団体が日本に帰国した帰りの船でソ連に行きました。その船は新潟から出てナホトカに行きました。その時、ナホトカは建設中でした。ソ連の一番最初の印象は余りいいものではありませんでした。私はお米を食べるのに慣れていたので、その代わりに他の穀物が出てくると、あまり食べたくありませんでした。
 そこから汽車に乗ってモスクワまで行き、さらに、ロストフ・ナ・ドヌへ行きました。長い間、夢見て来たモスクワに着いた時は嘘みたいな感じがしました。まず、初めに驚いたのはみんなロシア語を話している事でした。日本では誰かが近くでロシア語を話している場合は、必ず私達の知り合いでしたが、そこでは、私達の知らない人もロシア語を話しているのです。長い間それに馴染む事が出来ませんでした。前年に帰国した私のすぐ上の姉が、ロストフ・ナ・ドヌにいたから、私達はそこに行きました。まず、最初に直面した問題は住居の問題で、初めは、部屋を借りて住み、3ヶ月くらいたってようやく2部屋のアパートを貰いました。その頃のソ連はモスクワやレニングラードのような大きい都市には食料の問題はありませんでしたが、ロストフ・ナ・ドヌはその点大変でした。勿論、市場には何でもありましたが、値段が高かったので、何時もそこで食料を買う訳にはいきませんでした。帰国してからも母は大変でした。母は年金生活に入る為に病院で掃除のスタッフとして6ヶ月働きました。
 私達がロストフ・ナ・ドヌについてから上の姉達と兄達が来て、母は14年振りに翌年夏休みには帰って来ると思って1943年に中国の大連に送った子供達と再会しました。子供の面影もない大人になった子供達でした。きっと、母は自分の子供達が色々苦労した事を聞いて随分辛い思いをしただろうと思います。何しろ13歳、12歳、11歳、10歳の子供たちが、母の元から離れて、自分で自分の運命を決めなければならなかったのです。もし、近くに誰か経験のある人がいて相談に乗ってくれたら、どんな運命を選んだか分かりません。もしかしたらみんな日本に帰って来ていたかも知れません。その様な事を考えればきりがありません。
 一応落ち着いてから私は学校に行き始めました。東京にいる時ロシア語を勉強していたのですが、実際にはあまりよく分かりませんでした。教室で先生が説明している時は全部分かるような感じがしましたが、家に帰って宿題をする段階になると、何も分からなくなって、とても苦労しました。ソ連の学校で9学年と10学年をやって、1959年に学校を卒業してから、1959年にレニングラード大学の東洋学部の日本史科に入学、日本の歴史を勉強し始めました。勿論、私が日本語を良く知っていた事は入学する為の大きなプラスでした。
大学では色々な知識を得て、沢山の友達ができ、とても充実した生活を楽しみました。私が2年生の時、ソ連に革命後のキューバから沢山の留学生が来ました。レニングラード大学にも10人ぐらいのキューバ人が色々な学部で勉強し始めました。そして、私は経済学部で勉強していた今の夫であるイダルベルトと知り合い、彼の理想に惹かれました。なぜなら、ソ連に来た時の私の理想に合っていたからです。ソ連の青年達は革命が起こってから50年も経っていたので、ずっと物質主義的だったのです。キューバではほんの1、2年前に革命が起こったから、みんな熱心に社会主義こそキューバにある様々な社会問題を解決すると信じていました。しかし、結果的にはそうではありませんでした。その事について話す為には色々な国際事情や経済の知識を持っていなければなりません。ですから、その様な分析は専門家に任せましょう。
 イダルベルトと知り合ってから2年経った後で結婚して、1965年に大学を卒業してから2年間インツーリストというソ連の旅行会社でガイドとして働きました。1967年にキューバに渡りました。キューバに来てからは、ロシア語を教える事になりました。その後、ソ連が崩壊して、ロシアとの経済関係が失われ、キューバに大勢いたロシア人も引き揚げると、キューバでのロシア語の需要もなくなりました。ハバナ大学のロシア語教師も3分の1に減らされ、残りの教師は転身を図らなければならなくなりました。その時、幸運にも、シルバーボランティアの松尾先生がハバナ大学で開いた日本語教師養成講座に参加することができました。おかげで、私の頭の中に眠っていたが、長い間、使う機会がなかった為にもう話せなくなっていた日本語を呼び起こす素晴らしい機会が与えられました。その後、ハバナ大学やアジア会館、アジア・オセアニア研究所などで日本語を教えるかたわら日本語の通訳の仕事をしました。1995年には国際交流基金の海外日本語教師のための研修プログラムで30年ぶりに日本にくることができ、その時、函館にもまいりました。でも、その時は、この研究会のことも知りませんでしたし、知人に会うことはできませんでした。
 キューバにきて、もう40年たちました。娘と息子が1人ずついますが、娘はメキシコ人と結婚してメキシコに住んでおり、息子もメキシコで働いてます。
 よく、私の母国語は何語だと、聞かれますが、答えるのに苦労します。なぜなら、私はロシア人の家庭に生まれて、最初に聞いた言葉はロシア語で、私が最初に発音したのも、ロシア語だと思います。しかし、幼い時から日本の幼稚園に行き、その後、日本の学校で色々な知識を得ましたから、今でも自分の日本語の方に他の言葉と比べて自信を持っています。幼稚園や学校の後で、外で遊んだり、喧嘩したりしたのも日本語でやりました。でも、私が他の子供達と随分異なっていて、目立ったのが、とても嫌いでした。でも、今からその事を考えると、それが自分の運命であったと思います。日本では金髪で青い目であったから日本人になりきる事ができませんでした。ロシア(ソ連)に行った後も、そこで生まれて育った人とは、異なりました。物の考え方から、服の着方、他の人との付き合い方まで随分違いました。でも、私の家族のことを考えると、案外、恵まれていたと思います。
 今日は函館にこれて皆さんにお会いできて本当にうれしかったです。どうもありがとうございました。

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松風町の店の前で

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ズヴェーレフ一家  前列中央が祖父、後列左上が父、前列右端が母。母に抱かれているのが筆者。その他の兄弟姉妹は前列左から3女ナジェジーダ、次女ガリーナ、次男アレクセイ。後列右から長女タチアナ、長男ミハイル

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兄弟姉妹と

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左端はコロリョフ氏

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前列中央が母、膝の上には長女タチアナ、ミハイルはまだ妊娠中で、前後列右の男女は当時湯川に住んで木イチゴの砂糖漬けを作っていたクラフツォフ夫妻

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函館中央病院前で

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母と姉ナジェジーダと、大沼にて

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自転車に乗って

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大森小学校の卒業写真

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中学生の時

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東京時代

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ソ連時代

2007 特別報告会  「函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて」