函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

オリガさんとの出会い

2012年4月26日 Posted in 函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて

高木浩子

 高木と申します。本日はオリガさんの話を聴く会にお集まりくださり、ありがとうございました。オリガさんのお話の前に、私とオリガさんの出会いと今回、オリガさんが函館にこられることになったいきさつを少しお話いたします。
 今から10年以上前、1994年に私は勤めておりました国立国会図書館からキューバの首都ハバナにあるアジア・オセアニア研究所に派遣されました。初めその話がきた時は、キューバについて知っていることと言ったら、カストロ、砂糖、コーヒーくらいで、スペイン語もできませんでしたから、躊躇しました。でも、迷った末、滅多に行ける国ではないから、これも経験と行くことに決めました。ところが、その年、キューバは、1991年のソ連崩壊で砂糖と石油のバーター貿易が破綻、国内の経済状態は最悪となっていました。ハバナの海岸から手製の筏でフロリダ半島を目指すボートピープルのニュースが連日、伝えられていました。
 キューバは、アメリカのフロリダ半島の南方145キロつまり函館から青森より近いカリブ海の島で、面積は北海道の約1.3倍、人口は北海道の2倍1100万人の社会主義国です。日本からキューバへの直行便はありませんからメキシコ経由で2日がかりでハバナにたどりつきました。11月でしたが、もちろん夏、外国人専用のホテルは冷房が効いてましたが、街では、停電が常態化してました。ハバナの街は、スペイン統治時代に建設された旧市街も革命前金持ちの邸宅が並んでいた新市街も、海と空と緑の鮮やかさと対照的に、建物は一様にくすんで荒れていました。街にはソ連製のラダどころか革命前から乗ってそうな古ぼけた大型のアメリカ車が走り、たまに通るトレーラーのようなバスには鈴なりに人が乗ってました。トイレットペーパーにはじまり、ありとあらゆるものが不足してました。
 そんな街で約1ヶ月すごしたのですが、研究所で日本語の通訳として、出会ったのが、ロシア人のオリガさんでした。ソ連と関係が深かったキューバにロシア人がいることは不思議ではありませんでしたが、何故、日本語?しかも、外国人ばなれした流暢な日本語?この疑問は、すぐ解けました。そう、オリガさんは函館生まれで、17歳まで日本にいたのです。はじめは、自分のことを話したがらなかったオリガさんでしたが、毎日会っている中に、やがて、いろんなことがわかってきました。両親がロシア革命で日本に亡命したこと、お父さんが戦時中、スパイ容疑で収監され獄死されたこと、ソ連に帰って、レニングラード大学でキューバの留学生と出会って結婚したことなど。お宅に遊びに行ったりして、すっかり、意気投合したオリガさんと、私がハバナを発つ時には、オリガさんが日本にきたら、いっしょに函館に行く約束をして別れました。ところが、そのチャンスは意外に早くきました。翌1995年桜の季節に、国際交流基金の海外日本語講師のための短期プログラムで30年ぶりに来日したのです。5月の連休に約束どおり、いっしょにオリガさんの故郷函館を訪れました。オリガさんは、昔の家の跡、大森小学校、ハリストス教会、お父さんの眠るロシア人墓地などを案内してくれました。オリガさんはもちろん、いっしょに行った私にとっても忘れられない旅となりました。でも、その時は、残念ながら、この研究会の存在も知らず、オリガさんの昔の知人とは誰とも会えませんでした。
 旅から帰って、あらためて、オリガさんの家族の波乱に満ちた人生を知り、記録に残すことを勧めました。でも、17歳で日本を去ったオリガさんには知らないことが多すぎたので、断片的な思い出しか書けませんでした。それから10年近くたった一昨年、私も退職して時間ができましたので、函館のロシア人についてあらためて調べはじめました。その時、インターネットで函館日ロ交流史研究会が2004年に『函館とロシアの交流』を出版したことを知りました。早速、送ってもらい、2003年、今から4年前に、ペテルスブルグに住むオリガさんのお姉さんガリーナさんが函館に招待されたことを知りました。そこに小山内さんが書かれた「ガリーナ・アセーエヴァの歩んだ遠い道のりをたどって」には、ガリーナさんからの聞き書きをもとにオリガさん一家の1世紀にわたる歩みが描かれてました。私も国立国会図書館で長い間、調査の仕事に携わってきましたが、求めるテーマにぴたりと合う資料はなかなか見つからないものですが、この時は見つかりました。まさに欣喜雀躍で、日本にいるオリガさんの友人にこの大発見を知らせたものです。その後、小山内さんとも連絡がとれ詳しい話を聞いて、オリガさんに資料を届けるためにキューバを再訪することにしました。お姉さんのガリーナさんの訪日を妹のオリガさんがご存知ないのは変だと思われるかもしれませんが、ロシアもキューバも甚だ郵便事情の悪い国ですので、驚くに値しないことなのです。
 2年前の10月、10年ぶりにキューバに行き、オリガさんと再会しました。オリガさんの家が眼下に見えるホテルに1週間滞在し、毎日のように会って、日本から持参した資料とオリガさんの手元にある写真について語り合いました。10年ぶりのキューバは、新しいホテルが建ち、ユネスコの世界遺産になっている旧市街の教会などは修復されてきれいになってましたが、相変わらず、物不足で、経済の長い低迷で国民が疲れているように見えました。中南米ではばつぐんによかった治安も、最近はかっぱらいが増えているとのことでした。ハリケーンの襲来も毎年のことで、私が帰国した直後のハリケーンで、オリガさんの家の1階も浸水しました。
 帰国後、オリガさんが書いてくれた手記をもとに、函館の研究会の「会報」No.29に「ハバナで出会ったオリガ・ズヴェーレワさん」を投稿し、また、友人の紹介で、昨年の暮れ、SANKEI EXPRESSに「望郷の函館」と題するオリガさんの紹介記事を7回連載いたしました。これは、インターネットにも掲載されましたので、函館の知人の方がオリガさんと連絡をとる機縁となりました。東京では、この記事を契機に、中学時代のオリガさんの友人と連絡がとれました。
 そこで、函館の研究会で、お姉さんはご存知ない戦後の日本での生活とキューバ移住の話をしてもらい、連絡がとれた昔の友人・知人達と再会する機会を作りたいと考え、今回、オリガさんを日本に招きました。郵便事情は相変わらずのキューバですが、今年になって、オリガさんともメールの交換ができるようになりました。この研究会のこともインターネットで知り、また私の記事をインターネットで読んで、オリガさんと連絡をとられた方もありました。あらためて通信技術の威力を痛感しております。
 オリガさんのご家族とオリガさんのこれまでの人生については、この後、直ぐ、ご自身で語っていただきますが、オリガさん一家の歩みを見ると、節目節目に20世紀の歴史的重大事件であるロシア革命、日本の戦争、キューバ革命が深く影を落としていることに気づきます。オリガさんは、17歳まで日本に住み、10年間旧ソ連に住み、その後、40年キューバに住むロシア人です。自明のごとく日本人している私には、なかなか想像がつかないのですが、よく見ると、世界には、このような人は決して少なくないのですね。オリガさんを通して、私は歴史と個人のかかわりを学びました。
 10年前、おっかなびっくり出かけたキューバでしたが、オリガさんという素晴らしい友人と出会え、さらに今日、函館でオリガさんゆかりの多くの方々と出会えたことを心からうれしく思っております。

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1994年、訪問時

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ホテルから見たオリガさんの家(正面建物の右の2階家)

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ハリケーンで浸水したオリガさんの家

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ハバナ旧市街のレストランで

2007 特別報告会  「函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて」