函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

北海道における白系ロシア人の系譜

2012年4月26日 Posted in 函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて

小山内道子

はじめに
 今回は函館とゆかりの深いズヴェーレフ家の末娘オリガさんをはるばるキューバから生まれ故郷の函館にお迎えすることができて嬉しく思います。ちょうど4年前にはやはり函館生まれのお姉さん、ガリーナさんを私たちの研究会の10周年記念シンポジウムにお招きしてお話していただきました。また、それ以前に私は何度もペテルブルグにガリーナさんを訪ねてインタビューし、白系ロシア人として日本に移住したズヴェーレフ家の歴史、ガリーナさん達兄弟姉妹が歩んだ道程について当研究会の『会報』その他にも発表しておりました。ガリーナさんは1943年末10歳で日本を離れましたので、今では片言の日本語しか話せず、通訳が必要でした。ところが、オリガさんは、函館には1954年まで、その後1957年に17歳でソ連に帰国するまで東京で暮らし、その間日本の学校に通っていましたので、日本語を流暢に話し、書くこともできるのです。そこで今回研究会としては、ガリーナさん達が体験していない主に戦後の函館の生活の白系ロシア人としての思い出を話していただくことを期待してオリガさんをお招きしました。
 オリガさんのお父さん、クジィマー・ズヴェーレフさんがウラル地方出身者のグループでハルビンから北海道に移住したのは1925年頃ですが、本日私は1920年代に流入し、1940年代初期にはほとんど居なくなった北海道全体の白系亡命ロシア人の系譜・動向について主要都市と具体的な人物にも言及しながら紹介したいと思います。

函館とロシア人
 ロシアとの関係で函館は特別な地位を占めています。既に幕末には開港場となって外国船の入港があり、1858年、日本最初のロシア領事館が設置され、1861年には後のニコライ大主教が来函、ロシア(ハリストス)正教の布教活動が本格化していきます。函館はロシアに開かれた窓となったのです。経済活動においても1890年頃始まった日本人のロシア極東への出漁は函館が基地となり、ウラジオストク航路の船舶は函館に寄港し、また、カムチャツカ航路のロシアの義勇艦隊は往復路とも函館に寄港、その度に上陸するロシア人は市民にはお馴染みの興味深い存在となりました。ところが、1920年代には全く別の系統のロシア人が函館にも多数住み着きました。それはロシア革命の結果、革命軍に追われて主に中国を経由して亡命してきた白系ロシア人でした。国際連盟は1920年代ヨーロッパ諸国、中国へと流出した250万人とも言われたロシアからの難民のために特別の身分証明書(ナンセンパス)を発行し、他国への移住を可能にしました。難民受け入れを拒んでいた日本政府も「1500円の提示金制度」を設け、生活資金としてこの金額を有する亡命者には入国を認めることにしました。政府や警察の統計を見ると、1920年代後半に白系ロシア人の日本流入はピークをなしています。一方、1925年には日ソ基本条約が締結されて、ソ連政府を承認したため、ソ連人も来日するようになりました。1935年に書かれた亀井勝一郎のエッセイ「白系ロシア人」(『月刊ロシヤ』、4-11所収)には革命前と革命後のロシア人の様子が生き生きと描かれています。
 白系ロシア人はどんな職業に携わっていたのでしょうか(以上ロシア人名は苗字のみ、敬称略)。革命前からの漁業会社経営(リューリ商会、デンビー商会)、貿易、毛皮、不動産業(シュヴェツ家)、小規模なジャム製造業、パン、化粧品売り(クラフツォフ、サファイロフ)など、他に喫茶店やカフェ経営もありました。最も有名なのは、「ラシャ売り」と呼ばれた主に紳士服の行商人でしたが、この人達は拠点を決めて年ごとに全国を移動していましたので、定住地を持たない場合も多かった。知的職業としては、漁業会社の通訳、あるいはロシア語教授(コロリョフ、アルハンゲリスキー、成田ナヂェージダ)もありました。東京など大都会の場合はピアニストやバレリーナ、画家等もいて、職業はもっと多彩でした。オリガさんのズヴェーレフ家ではお父さんは洋服の行商もしていましたが、最初は「ボルガ」というパン屋兼喫茶店、大火後は洋服店「コジマ」*1だったそうです。ただ、戦後はお母さんが女手一つで洋服・洋品店でやっていけたのかは疑問です。進駐軍による厚遇もあったと言われています。
 日本人と結婚したロシア人男性、女性で函館に住んでいた白系ロシア人も数人知られていますが、男爵家出のコロリョフさんについては大野吉雄氏の「二つの祖国・カロリョフさんのこと」(『地域史研究はこだて』№16所収)が下宿人としてご自身で体験したロシア人の家庭生活を具体的に紹介した優れたエッセイとなっています。

札幌・小樽の白系ロシア人
 『札幌正教会百年史』には残念ながら白系ロシア人について言及した箇所はありません。そこで函館大火直後函館から札幌へ移住され、1860年函館正教会の司祭となられるまで札幌正教会の中心的活動家として尽力され、後に『函館ガンガン寺物語』を書かれた厨川勇氏のご紹介で信徒の太田十六黎さん宅を訪ね、1930年代札幌ハリストス正教会の「ロシア人係」とも言われた祖父の田村末吉さんについての話を伺いました。田村さんは大きな下宿屋を営んでいて、常時6~7人のロシア人を住まわせていました。また、その時代の貴重なアルバムを残しておられ、その中には1934年の美しい結婚式の写真がありました。西村食品工業が菓子職人として採用したニコライ・ザハロフと下宿人ヴェーラの結婚式で、ロシア人が約20名も集まっていて、統計書の数とほぼ一致します。太田さんの話しでは養狐場、洋品店、カフェの経営、行商などだったようです(名前は省略)。
 小樽には食料品・既製服商を営んでいたカターエフ、小樽高商(当時)ロシア語教師スミルニツキー、札幌から転居したパンとケーキ店のヴォロビィヨフなどが知られています。

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1934年頃のニコライとヴェーラの結婚式 太田十六黎さん提供

釧路・帯広・旭川
 私が住んでいる釧路の白系ロシア人については、戦前北大通りに洋服店を出していたベロノゴフさんが釧路ハリストス正教会百年記念行事に来釧したというニュースから、その後教会を通して紹介していただき、サンフランシスコへお訪ねしてお話を伺いました。既にご両親は亡く、娘さん、息子さん達でした。また、釧路で同じく洋服店をやっていた高齢のユーシコフさんが近所におられ、貴重なお話を聞くことができ、当時の釧路の全体的な様子が分かりました。ロシア人が一番多かった1930年代には6軒ものロシア人の洋服・洋品店があり、子供達も多く、総勢約20名も住んでいたのです。このロシア人については、釧路ハリストス正教会の『百年の歩み』(1992年)に教会堂建設についてのロシア人たちの貢献が大きかったことや、後にスパイ容疑事件で逮捕、投獄された悲劇にも触れたしっかりした記述があります(名前は割愛します)。
 帯広ではイワノフ(1930年病死)、ハンジン(1944年獄中死)の2人が知られています。
 旭川には北海道で最も有名な白系ロシア人スタルヒン一家がいましたが、父親の殺人事件とヴィクトルのプロ野球入りで1934年には旭川を離れています。警察の資料によると、この一家の他に「北海道露国移住民協会」の役員・会員としてマモーノフ、コレジャトコフ、メドシチェコフ、レオンチェフの名が挙げられています。

太平洋戦争・「レリメッシュ商会外諜事件」と白系ロシア人の道外退出
 以上のように北海道の各地にかなりの数のロシア人たちが住んでいました。しかし、日米開戦後早々に陥った苦境の中で、政府は白系ロシア人を含む外国人に対する監視、取締りを強め、1942年末から43年にかけて上記名のスパイ容疑事件で北海道各地の7名の白系ロシア人を逮捕しました。東京の貿易商会のスタリコフが主犯とされましたが、小樽のカターエフも道内の主犯とされ、「事情を知らずカタエフに利用せらる」として、他に4人が有罪なり、その中に入っていたズヴェーレフ、ハンヂン両氏が獄中で死亡したのです。スパイ容疑として警察があげた理由は高台から戦艦・航空母艦を観察したなど、馬鹿馬鹿しいと言ってよいことばかりでした。この事件は特に北海道居住の白系ロシア人に衝撃を与え、慌しく東京、神戸などロシア人が多く住む地、あるいは国外へと移住していきました。その結果、1945年終戦時まで残っていた白系ロシア人はごくわずかでした。
 日本における、あるいは北海道における白系ロシア人の系譜、その足跡を調べることによって、歴史上のある時期懸命に生きていた人々の存在、周囲に与えた文化的影響、また迫害されてさらに第3の地への移住を余儀なくされた悲劇などを初めて知ることになります。ガリーナさんとオリガさんに直に接し、お話を聞くことでこの歴史的事実を実感し、次の世代へ伝えて、記憶を確かなものにしていただきたいと願っています。

*1 店名については、大門の「赤帽子屋」村上蓊さんによると、通称コジマから「コジマ」であった、ズヴェーレフ家の隣に住み、よく一緒に遊んだ須藤隆さんの思い出では、(背広を着た男性と川の絵の大きな「ヴォルガ商会」の看板がかかっていた)、という証言をいただきました。

2007 特別報告会  「函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて」