函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ウラジオストクと私

2012年4月26日 Posted in ウラジオストク訪問記

倉田有佳

 この度、ウラジオストクに訪問したものの、仕事の関係で、残念ながら文化交流団の一員として参加することはできなかったが、私が初めてウラジオストクを訪問したのは、1997年秋のことで、ウラジオストクで開催された第二回国際会議「在外ロシア人」に出席し、「在日亡命ロシア人社会 ―1920年代から1930年代」をテーマに報告するためであった。会議のプログラムの一つとして、ウラジオストクの郷土史研究家として良く知られているネーリャ女史が、市内を案内してくれた。その際、20世紀初頭、ウラジオストクに多数の日本人が暮らしていたことに触れられ、元デンビー商会の建物の場所を示してくれたことが思い出される。
 その後、1998年3月から3年間、在ウラジオストク日本国総領事館の経済専門調査員としてウラジオストクで生活する機会を得たが、その間、「ウラジオストクの日本人」をテーマに研究されているロシア極東国立総合大学モルグン助教授には、日本人街を何度か案内していただいた。モルグン先生の説明によると、日露戦争前、日本人居留者数は最も多い時には5,000人以上に及んだ。「ヒュンダイホテル」の周辺を中心に日本人街が広がっており、1990年以前、ホテルの建設工事が始まる前までは、日本人が暮らしていた木造家屋が多数残っていた。しかしその建物の多くは市の再開発の波に押されて、ほとんどは取り壊されてしまったとのことである。興味深いことに、1960年代初めには、浦潮本願寺の建物の一部がまだ残っており、極東大学の学生寮となっていたが、当時、極東大の学生であったモルグン先生は、その学生寮に暮らしていた。当時は、その由来を知るロシア人はいなかったが、モルグン先生は、変わった間取りの建物だという印象を持たれたとのことである。
 1860年に開基したウラジオストクは、シベリア鉄道の完成を見るまでは、欧露部からロシア極東へロシア人移民を大量に輸送することができなかったことから、外国人移民が奨励された。その結果、20世紀初頭のウラジオストクは、日本人以外にも、ドイツ人、中国人、朝鮮人など様々な外国人が暮らす国際都市・自由貿易港として栄えた。中国人は、一般的に労働者(苦力)として、朝鮮人は農業移民、そして、日本人は商業者が多く、商店、旅館、洗濯屋、銭湯、写真屋などを営んでいた。日本人は、目抜き通りを和服・下駄履きで闊歩し、子供たちは日本人学校で学び(浦潮本願寺の前身の「ウラジオストク布教場」に併設された)、冠婚葬祭は浦潮本願寺で執り行うなど、日本と変わらぬ生活様式がそこでは営まれていた。また、いわゆる「からゆきさん」が、主に九州からウラジオストクに出稼ぎにやってきており、当時の日本人居留民の大きな割合を占めていた。彼女らが暮らしていたというレンガ造りの建物は、モルグン先生の日本人街案内では大きな目玉となっている。アーチ状の門を潜り抜け、迷路の奥に潜んだ古いレンガ造りの建物を見て、当時に思いを馳せる日本人も少なくない。
 日露戦争後、再びウラジオストクに日本人が戻って来るが、1917年のロシア革命、続く国内戦争、シベリア出兵、スターリン時代の粛清の嵐の中で、日本人は次々とウラジオストクから引揚げていった。1937年には、浦潮本願寺の住職であった戸泉夫妻が、そして1944年には、ついに総領事館員もウラジオストクから引揚げた。
 ところで、浦潮本願寺の住職の妻であった戸泉米子さんは、ロシア人と結婚した叔母を頼ってウラジオストクを訪れたまま居付いてしまい、その後は、当時の日本人女性としては非常に稀なことだと思うが、極東大学に入学してロシア人の間で学んだ。ロシア人の親友がいたが、やがて、日本人との付き合いがあったロシア人がスパイ容疑で次々と逮捕される時代がやってきた。極東大学でも、日本語教師が逮捕されて、1939年ついには大学が閉鎖に追い込まれた。戸泉さんは、ロシア人の親友たちとの決別を決意し、日本人(浦潮本願寺の住職)と結婚する。青春時代の美しい思い出や、続く厳しい時代について、自著『リラの花と戦争』(2000年 福井新聞社)で振り返っている。現在、戸泉さんは、ご高齢にも関わらず、日本(福井県)とウラジオストクを頻繁に往来し、両地域の友好交流の架け橋として活躍されているが、その際、ウラジオストク時代に身に着けた語学力が役立っていることは言うまでもない。
 さて、冷戦時代のウラジオストクは、太平洋艦隊司令部が置かれた軍港として、我々外国人のみならず、ロシア人にとっても出入りが制限される閉鎖都市となった。当時、ロシア極東で外国人の立ち入りが許可されていたのは、ナホトカとハバロフスクの2都市だけであった。しかし、ソ連崩壊後の1992年、ウラジオストクは、外国人に門戸を開き、翌1993年10月には、ナホトカに置かれていた日本国総領事館がウラジオストクに移転し、同時に、ハバロフスクに新たに総領事館が開設された。こうした状況の中で、1992年7月28日、函館市はウラジオストク市と姉妹都市締結したのである。
 思い起こせば、私のウラジオストクへの強い憧れの気持ちは、大学時代にソ連への団体旅行には何度か参加した際、極東大学の学生通訳から、ウラジオストクは坂が多い美しい街で、素敵な映画館があり、街の美しさはハバロフスクの比ではない、と聞かされた頃から始まったと言えるが、実際に暮らしてみたウラジオストクは、想像以上に魅力的な街であった。
 路面電車が走るスヴェトランスカヤ通りに沿って立ち並ぶ欧風の建築物、極東国立工科大学本部のあるプーシキン通りなど味わい深い街の風景、そして、何よりもウラジオストクの魅力は、日本と深く関わる歴史があることや、郷土史研究者の層が厚いこと、さらには、極東大学、アルセニエフ博物館、ロシア科学アカデミー極東支部といった一流の研究機関があるため、自分の研究成果を発表する場があるとともに、同じ研究テーマで語り合える知識人が多数暮らしていることであろう。こうしたことは、今回、文化交流団として参加された皆さん自身、ウラジオストク市内を散策し、モルグン先生の案内で日本人街を見学し、また、アルセニエフ博物館での展示やウラジオストク日本センター付属日本文化同好会と交流を通じて実感されたのではないだろうか。
 次回は、是非とも文化交流団の団員の一人としてウラジオストクを訪問したいものである。

【ウラジオストクについて詳しく知りたい方のために】
・原暉之『ウラジオストク物語 ―ロシアとアジアが交わる街』1998年 三省堂
・堀江満智「遥かなる浦潮 ~明治・大正時代の日本人居留民の足跡を追って~』 2002年 新風書房 
・堀江満智「ウラジオストクの日本人街」 ユーラシアブックレット No.73
・佐藤洋一「帝政期のウラジオストク中心市街地における都市空間の形成に関する歴史的研究」2000年3月(博士論文)
・『20世紀夜明け前の沿海州 デルス・ウザーラの時代と日露のパイオニアたち』(財)北海道北方博物館交流協会編。2000年 北海道新聞社
・『古都ウラジオストック』1992年 「ロシアの朝」出版社(ウラジオストク)