函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

初めてのロシア

2012年4月26日 Posted in ウラジオストク訪問記

中嶋肇

第一部 雨
 ウラジオは、今日も雨だった。今回の5日間のウラジオストク市訪問の内、1日目と最終日5日目帰函する日だけが晴れで、肝心の中3日間は毎日雨降りであった。
 ホテルの初夜が明けて、窓を開けると昨日ははっきり見えていたホテルの前の湾、向かい側の島も霧がかかり全然見えない状態であった。ウラジオストクは霧が厚いので、空港は市内から車で1時間もかかる、離れた所に建設されたとのこと。
 それにしてもロシア人は雨が降っても傘をささない。街を通っている人の半数、特に若者は雨に濡れながら歩いている。決して走ったりはしない。ウラジオストク市建都145年の記念行事が、夕方6時から中央広場で催されていたが、雨の降る中ずぶ濡れになって手を叩き、エールを送っているヤングの姿がTVで放映されていた。
 ウラジオストク市は坂の多い町であるから、急な坂道では雨水が滝のように流れていた。そして低い所では大きな水たまり。下水溝も設備が完全ではないようだ。雨宿りに、市内最大のデパート・グムに入った。扉を開けたとたんに雨が降ってきた。なんとデパートの入口で雨もりがしているのだ。しかもザーザーと。日本ではとうてい考えられないことだ。
 又、昼食のため新しいガラス張りピラミッド型のレストランに入った時も同様、雨もりがしていて従業員が一生懸命モップで床を拭いていた始末。このレストランの前に、まだレーニンの像が建っていて、その頭上にカモメが一羽止まっていたのが印象的であった。
 そして極め付けは、4日目の晩、今回の訪問団が一堂に会して交流夕食会を開くことになっていた。6時からの開会なので、5時半にバスでホテルを出発したが、雨の為、交通渋滞をおこし、なんとふつうであれば15分で行ける会場のヒュンダイホテルへ着くのに1時間半もかかった。あせりとあきらめの入りまじった複雑な気持ちであった。

第二部 日ロのつながり
 今回のウラジオストク市訪問の目的、私としては未知の国ロシアへの興味もあったが、祖父の働いていたデンビー商会を訪ねることであった。
 祖父は、青森県から函館へ来て、いつ、どこで、どうしてデンビーと知り合ったのは不明であるが、カムチャツカへ鮭鱒を漁りに行っていた。後年船を下りて、入舟町船入澗の正面に居を構え、デンビー商会の番屋の支配人となっていた。そこへ来た婿さんが日魯漁業のロシア語通訳、ハルビン学院出のバリバリであった。日魯の社員が集まると、いつの間にかロシア語で会話していたような記憶もある。
 さて、4日目極東大学のゾーヤ・モルグン先生の案内で市内、特に日ロ交流に関係ある場所を見学して歩いた。先ず、宿泊していたウラジオストクホテルのすぐ前の道路から崖になっている真下の船着場を見下ろして、ここは日本兵の捕虜を使って出来たものだと話された。ウラジオストク市の発展の一部は日本人のお陰とも言われた。
 とある大通りの店と店との間の門というか入口から入ると、まわりを建物に囲まれた小さな広場があった。そこが日本人の住んでいた所で、子供らの遊び場であったそうである。
 そのような場所を2、3ヶ所見たが、中には湿っぽく小便くさい匂いのする所もあり、こんな所に住んでいたのかとわびしい思いがした。また駅の前であったが、やはり門構えを入ると、中は袋小路になって日本でいう長屋があった。ここは娼婦街であったそうだ。今は明るい色に塗られたバーらしきものが2、3軒見られた。
 大通りに旧日本領事館があり、その横には建設中の建物があった。ゾーヤ先生によると、以前は歴史的建造物が建っていたとのこと。建設ラッシュのウラジオストクでは、歴史有る建物が取り壊されることも多く、ゾーヤ先生は悲しんでおられた。取り壊された木柱の一部は記念として大学の自分の研究室に飾ってあった。
 その領事館の反対側の角に元デンビー商会の建物があった。しっかりした横長の大きなビルである。現在何に使われているか聞くのを失念した。この見学中全て、雨が降っていたのは言うまでもない。
 次に浦潮本願寺跡へ云った。かつては、6,000人からいた日本人の中心として大きな役割を果たした寺も、今は建物も取りこわされ記念碑が一基建っているのみであった。
 3日目、ウラジオストク日本センターへ寄った。玄関にロシア語を縦書きにして「ДЗЮДО」(柔道)と張り紙がしてあった。中へ入ると、2004年にアルセニエフ博物館の企画展で通訳として来函されたオリガさんが迎えてくれた。彼女は相変らず、スリムで美しい。日本風に言えば米粒が横に入らないという感じ。
 なぜ「柔道」かというと、ロシアで初めて柔道が行われたのが、ウラジオストク市であり、その人はワシリィ・オシエープコフ(1892~1937)であるという。彼は、東京の神学校へ入学し、ニコライの世話になったそうだ。その後軍に採用され、日本語通訳として勉学し、成績も優秀であったとのこと。在日時代に、講道館で柔道を習い、1914年に柔道の初段をとり、"Japan Times"に載ったこともあるそうだ。そういう歴史が新たに掘りおこされ、その一部始終を展示してあった。
 一巡した後、ロシア科学アカデミーの有名な室内コーラス隊「コラージュ」の合唱を聴き、ケータリングのパンやケーキなど軽食をとりながら歓談して帰った。

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展望台から見たウラジオストク

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雨のなかの旧日本人街散策。後ろの建物が旧デンビー商会