函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ウラジオストク訪問記

2012年4月26日 Posted in ウラジオストク訪問記

桑嶋洋一

 ウラジオストク建都145年に参加した。僕は日口間の写真交流史の調査をしているので、同市は是非行きたい場所だった。主な目的は次の2点であったが、それに加え市立函館図書館に秘蔵されている「樺太のヤマネコ」写真と同じヤマネコの剥製に対面出来た。今回見たヤマネコは沿海州で捕獲されたもので、樺太のヤマネコそのものではないが、種は同類である。

(1)ロシア人の写真
 函館港は開港を求めロシアが派遣したプチャーチン提督の旗艦ディアナ号が立ち寄った港でもある。乗艦していたモジャイスキー海軍技術中尉は函館市中を写真に撮影し、帰国後、彼は写真を基にしてスケッチ画を描いている。その作品はロシア海軍中央博物館(サンクトペテルベルグ)に秘蔵されている。
 この史実は、忘れられ日本写真史上でも取り上げられていなかった。だが、日日写真交流史を紐解くと、開港時に来航したロシア人に日本人が写真術を学び、営業写真家が生まれるきっかけが作られたのである。函館でも例外ではなく、木津幸吉や横山松三郎、田本研造など日本写真史に名を遺す写真家が生まれた。

(2)ディアナ号の大砲
 ディアナ号は函館から大阪を経由して伊豆下田に赴き、幕府と開国に就いての本交渉をしたのだが、下田は東海近畿大津波に遭いディアナ号は航行不能になった。破損した同号は修復する事になり艦載砲52挺を下田で降ろし、伊豆西海岸の戸田村に回航されたのだが、途中で大風に遭遇し沈没してしまった。
 そこで代船の建造になり、地震で被災した村民がロシア人の為に骨身を削って協力したのであった。このお礼としてロシア政府は、ディアナ号に搭載していた52挺の大砲を日本に贈呈したのであった。
 この大砲は、幕府が築城した品川台場や幕府海軍の軍艦に設置された。函館では弁天台場にも据え付けられたし、蝦夷地開拓を目指した榎本艦隊の軍艦に搭載され、箱館戦争に使われた。戦後、函館湾内は沈んだ軍艦の墓場の状態となっていたが、一部は引き揚げられた。
 ブラキストン(ブラキストン商会)は4挺の大砲を購入したものの岸壁に放置していた。ブラキストン商会を引き継いだヘンソン氏(イギリス人)は、明治24年(1891)に函館区に寄贈し、大砲は函館公園に「日露和親の記念砲」として展示された。
 この記念砲は今次大戦の金属回収令で市民の眼前から姿を消したが、この大砲と同型のものが横浜市にあり、函館に残る資料と並べて検討したところ、横浜の大砲はディアナ号の大砲と判明した。
 この大砲を巡る謎は、ロシア(クロンシュタット軍港)~イギリス~ウラジオストク諸都市に関連しており、ウラジオストクを舞台にした謎は未解決であり、今回の訪問をその謎を解く機会と捉え、極東大学・博物館・日本センターの方々に会い、問題解決の協力をお願いしたのである。
 滞在5日間は生憎の雨に崇られたが、ウラジオストク訪問の旅は幸いだった。