北大スラブ・ユーラシア研究センターに史料を寄贈して ~ウラジオストク居留民に思いを馳せながら~
2023年5月 6日 Posted in 会報
堀江 満智
(1)はじめに
この拙稿を書いている今も、ロシア軍のウクライナへの侵攻と殺戮は熾烈さを増し、信じ難い悲劇が起こっている。ロシアへの非難が強まる中、政権と国民は別、文化交流の意義は変わらないと云われつつも日ロ交流に複雑な暗い影を落としている。
日本とロシアはその昔から庶民同士は交流し影響を与え合って暮らしてきた。江戸時代末期の漂流民だけでなく、明治維新後民間人が自発的に極東ロシアに渡り生業を営み、ロシア人や中国人その他の民族と平和共存していた時期があった。けれどそれは革命と「シベリア出兵」、その後ウラジオストク(以下、「浦潮」)が閉鎖都市になり、国交断絶したソ連時代に忘れられてしまった。しかしソ連崩壊後近年、街の著しい発展と交流が復活し、彼の地の歴史を振りかえる動きも生まれた。
私は明治・大正時代の浦潮の日本人居留民の子孫で、祖父(堀江直造)と祖母(堀江萬代)、父(堀江正三)は、1900年末から1921年と1922年に帰国するまで、浦潮で暮しさまざまな史料を遺した。それらは日記や手紙、絵葉書、写真、契約書、感謝状、紙幣など市井の人々の暮らしの匂いのするようなものであった。無名の人々も役職にあった人々も、それぞれの喜怒哀楽を遺した。公的資料からだけでは見えない証言もある外史、である。散逸しないうちにそれらを然るべき処へ寄贈したいと私は思っていたのだが、この度北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターが受けてくださることになった(およそ60点)。たまたま私の家に遺った史料が日露民衆交流史の研究に少しでも役立ち、先人達の足跡を知ることにつながればと思いながら紹介させていただきます。
(2)浦潮の日露関係史の中の堀江家の略歴
日露関係がどのような時に直造らは生きたのか、略歴を記してみたい。
(ゴシックは堀江の経歴)
1860年 ウラジオストクは北京条約でロシア領となる。
1870年 直造、京都府加佐郡舞鶴町に士族の長男として出生。
1876年 日本貿易事務官(後の日本総領事)を置く。すでに自由港で貿易発達。開拓期。
1877~1890年 日本との定期航路、インフラ整備、教育文化施設の建設進み、人々流入。
1892年 直造、浦潮へ渡り大阪出身の西澤商店で、果物、日用雑貨の輸入販売をする。
1894年 浦潮本願寺設立、日本小学校発足、定住日本人は約770人。
1895年 直造、同郷の塩川萬代と結婚。
1899年 直造、西澤商店を引き継ぎ堀江商店経営者となる。居留民会評議員に。
1901年 定住日本人1,244人。
1902年 日本居留民会が全員加盟の、様々な世話をする組織になり、直造会頭に。
1903年 シベリア鉄道開通。商圏拡がる。日本人商店は第三次産業の個人商店が多かったが、浦潮の商工業の32%(280中92)を占めるようになった。
1903年 直造は実妹平田さとの三男正三を養子に。
1904年~1905年 日露戦争。
1905年 日露戦争で帰国した日本人が戻り、二等商店が増えた。第二次発展期。
1909年 自由港廃止で関税が上がり、日本人は麺、精米、飲料水等を現地生産に。直造は素麺・缶詰製造工場を起こす。
1912年 日本政府の要請で日本小学校を露国政府が公認。(1915年に生徒165名、教師5名)
1913年 浦潮の人口はロシア人53,957人、中国人26,787人、朝鮮人8,210人、日本人1,830人、欧米人等1,480人(『浦潮斯徳事情』より。他の数字もあり厳密ではない)。
日本人企業は760中150に。居留民会と沿海州政府、日露の業界団体の交流盛んに。
直造は居留民会会頭、商工会会頭、果物商組合長、日本小学校理事などに。
1917年 2月革命、10月革命起る。邦字紙『浦潮日報』創刊。居留民会出資、直造役員に。
1918年 「シベリア出兵」始まる。日本人商人は軍事用達社、西比利亜商事株式会社を設立。
軍の兵站を担い、総領事館、日本軍、居留民会が一体で出兵に協力。石戸商会事件。
1918~1921年 直造は上記会社設立に尽力し役員に。その後日本軍と露国白軍(セミョーノフ将軍)に協力して多大な経済的損失を被り、事業も役職も退き、引揚げに。
1919年 正三、東京外語ロシヤ語科を卒業。カムチャツカに堀江商店出張所を出す。
1921年 日本人商店234軒、5千人以上の日本人がいたが市内混乱、日露市民離反、営業困難に。直造夫妻帰国。正三は1922年6月に函館に引揚げ、その後京都へ。
1922年 日本軍敗退とソヴィエト政権成立。
大半の日本人引揚げ、日ソ民間交流は困難に。
1925年 日本政府ソ連承認、ソ連大使館設置。1920年代後半からスターリンの強権政治
1936年 ウラジオストク閉鎖、軍港都市に。日ソ国交断絶。
1945年 第2次大戦終結、日本敗戦、シベリア抑留。
1951年 サンフランシスコ講和条約(ソ連参加せず)、南千島の領土問題、日米安保条約。
1991年 ソ連崩壊、92年ウラジオストク市外国人に全面開放。
堀江商店展示写真(大正2/1913年)
浦潮史料1 左上は渡航した頃の、右上は40歳頃の直造、左下は萬代
(3)浦潮の日本人社会の特徴
浦潮はこんな街で、日本人の暮らしはこうだった。
(イ)19世紀末から浦潮は地の利を生かして貿易や商業が急速に発達し、周辺から流入した人々が民族、国籍を問わず一緒に近代的市民社会を築いた、自由闊達な港町だった。
(ロ)日本人は個人が自発的に渡り、初めは零細な個人商店や職人達による消費財の輸出入やサービス業が中心で、写真屋、時計屋、洗濯屋、仕立て屋、料理屋などが多かった。
(ハ)日露戦争以後は比較的大きな貿易商や工場ができ、自由港制度廃止後は現地生産の精米工や飲料水製造業等が生まれ、市場経済が発達した。居留民会や商工会、ロシア語学校、小学校、邦字新聞「浦潮日報」などの日本人組織が、ロシア側の商業団体や沿海州政府とも窓口があり交流した。
(ニ)1918年頃から革命とそれに続く国際干渉戦争「シベリア出兵」の影響で街は混乱し、友好や貿易は困難になった。日本居留民は日本軍と白軍に協力し、商人達は兵站の役割を担った。隣人であり顧客でもあった市民どうしの関係は悪化し生活や営業を続けることは困難になり、日本人は引揚げて1937年には皆無に等しくなった。
(ホ)1922年のソヴィエト政権成立後、1920年代後半以降日ロ(日ソ)両国は断絶、敵対の歴史を辿り、浦潮は閉鎖された軍港都市になり、居留民の歴史は忘れられた。
(4)どんな史料を遺したのか。
祖父、祖母、父は三者三様の体験をする中でそれぞれの特徴ある史料を遺した。
堀江直造(1870-1942)
堀江直造は、舞鶴藩で小姓を勤めた父親と10歳で死別し母親と妹と共に舞鶴を出て大阪の商家で働いた。22歳で浦潮へ渡航し、母と妹は京都のさる家に住み込んだ。直造が浦潮で初めての日本人組織「日本人倶楽部」を初代貿易事務官の寺見機一らと共に立ち上げた頃は草深い開拓期であったが、その後人口も増え、浦潮の発展に伴って直造も種々の役職につき一家の暮らしは物心共に良くなった。
しかし革命運動の影響が極東にも及ぶ頃貿易にも支障が出るようになり、併せて反革命側を応援した日本軍に物資を供給したが代金回収できず、多大な損失を受けて日本に引揚げた。その後は舞鶴藩邸で執事をして終わった。
次のような史料を遺した。
日記(1916年~1918年)
初めは平穏に商売が続いていた頃の現地の暮らし、日用品やリンゴの仕入れで帰国したことなどが書かれ、1917年頃から革命の影響で輸送やロシア政府の輸出入為替禁止の法令で貿易が困難になり解除運動に奔走したこと、出兵を再考するよう日本政府に陳情に来た事、ロシアの商工業者との交流が述べられ、1918年からは日本総領事館に頻繁に出向き、日本軍の駐屯に協力した過程が詳細に書かれ、「石戸商会事件」の現地の証言とも云える記述もある。
手紙、葉書、電報
手紙は日本の日露協会会長や京都の西本願寺からの協力の要請、出兵が本格化すると日本軍将校からの戦況や駐屯に関する御礼が中心で、絵葉書の写真には街の様子が見られ、双頭の鷲のシールのついた電報は私信だ。
1916年の葉書と手紙の宛名
写真、表彰状、感謝状、契約書
写真は居留民仲間や要人、菊地総領事、堀江商店の商品など。表彰状、感謝状は日露貿易への尽力や露語学校への寄付、日赤への奉仕などについてである。契約書は明治32年に西澤商店から財産を引継いだ時の公証人役場の公正証書。
メモ類
浦潮や帰国後読んだ短歌・俳句の雑詠。
堀江萬代(1876-1944)
堀江萬代は、19歳で浦潮の直造のもとに嫁ぎ、現地の暮らしに溶け込んだ。直造の仕事を支えながら、居留民仲間と付き合い、店員の世話をし、日本赤十字社のボランティア活動や居留民会婦人達とバザーなどをした。
日記(1908年~1910年の断片的な記録)
主婦の目線で見た明治の浦潮の様子、居留民仲間や店の中国人店員らとの交流など日々の暮らしが、和綴じに達筆な毛筆で書かれ、ユーモラスで暖かい筆致である。日本からの船を心待ちにし、出入港の度に客人の動向や情報を記した。直造の公的活動とはまた違う"萬代の浦潮"があった。
写真、手紙、表彰状、土地の売買契約書
日赤や家族、日本の身内のことなど。土地売買契約書にもアレウツスカヤの住所がある。
カムチャツカの堀江商店出張所
雑詠メモ
帰国後の浦潮への想いなどを詠んでいる。
堀江正三(1898--1963)
堀江正三は、直造の実妹の三男で、5歳の時に子供のなかった直造夫婦の養子になった。3歳頃から京都と浦潮を往復し、浦潮の日本小学校、早稲田中学を経て東京外語ロシヤ語科に入学した。1919年に卒業後直造の仕事を手伝った後、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに堀江商店出張所を出したが1922年に引揚げた。
幼い頃から慣れ親しんだロシア語が堪能だっただけでなく、ロシアの文化や国民性等あらゆるロシア的なるものを生活と学校の両方で学んだ。カムチャツカ撤退後も引続きロシアでの就職を望んだが叶わなかった。1926年に朝日新聞大阪本社編集局に就職し定年まで務めた。表面的にはロシアと無縁になったがロシアへの想いは残った。他の2世達も、経済的基盤を整えるのが主だった居留民1世よりもより深いロシア理解があっただろうが、その後の彼らの足跡はあまりわからない。
日記(1923年、1924年)
京都で暮らしながら、浦潮の想い出、ロシア関係の就活(外語の先輩を頼って満鉄調査部や三菱亜港出張所、大連図書館等)、翻訳を試みたことなどをロシア語を交えて記す。
ロシアからの絵葉書
ロシア各地の友人等からの便り。
その他
写真(ロシアの友人や外語時代)、名簿、蔵書、レコード。
家族ぐるみの交際のあった大河内門三郎氏(1856--1943)は和歌山藩士で、大阪貿易語学校でフランス語を学んだ後、極東ロシアの奥地に入り交易しながらロシア語やギリヤーク語を習得し、その後税官吏を経て日本陸軍の通訳、樺太国境画定委員を務められた。その時の史料をいただいた。
サハリン全図、コルサコフの地図(明治37年と39年樺太庁発行)
日露戦争時で、日本人商店や公共機関名が書き加えられている。
樺太国境画定委員の辞令や身分証明書、ロシア側の委員名、軍事郵便。
パスポートやビザ、日本統治下の樺太の風物や現地民族の絵葉書、ルーブル紙幣など。
100年前のロシアでも様々な暗雲はあったが、民衆はより良い生活を求めて働き協力もした。そこにどこかあっけらかんとした明るさを感じ、本来の民衆交流の姿を私は想った。不合理や戦争にも負けず頑張った普通の人々の姿を、史料の行間から掬したい。
堀江満智著、左近毅監修・解説『遥かなる浦潮 ~明治・大正時代の日本人居留民の足跡を追って』新風書房、2002年(電子書籍kindle版でも読めます)。
堀江満智『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』ユーラシアブックレットNo.73(2005年)、東洋書店。
「会報」No.43 2022.6.15 会員報告