函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

特別寄稿 「シベリア出兵」撤兵後の邦人大量拘禁事件の周辺

2012年4月21日 Posted in 函館-ウラジオストク交流の諸相

小山内道子(元北海道教育大学講師)

はじめに
 1860年建都のウラジオストクは昨年建都150年を迎えた。その歴史をひもとくと、有名な古典的文献としてその前期の歴史50年を語るニコライ・マトヴェーエフの『ウラジオストク市歴史概説』がある(1)。この書には1910年までのウラジオストク発展の歴史がたんたんと編年体スタイルで記述されていて、函館の歴史とは違った処女地からの都市成長の記録がたいへん興味深い。しかし、日ロ戦争期には住民と学校、公共機関等が疎開したこと、日本の戦艦からの砲撃で死者が出たこと、その後の予想外の敗戦、続いて起こった暴動、殺戮、破壊、そして政治的デモやストなどの混乱と不穏な状況はウラジオストクの危機ともいうべき事態となった。このあたりのマトヴェーエフの叙述は緊迫したものとなっている(2)。日ロ関係の大きな試練だったのである。ただ、本稿ではこの問題には触れない。引き揚げていた日本の居留民は戦後徐々に再び浦潮に戻っていったのであった。
 しかし、その13年後の日本の「シベリア出兵」はロシア極東、特にウラジオストクの歴史における日ロ関係史上に最大の汚点を残した。本稿では『月刊ロシヤ』によってその撤兵後に起こった残留邦人の大量拘禁事件に焦点を当て、「歴史の記憶」を探ってみた。

『月刊ロシヤ』と1924年浦潮の邦人拘禁事件の記録
 『月刊ロシヤ』とは1935(昭和10)年から1944(昭和19)年にわたって発行されていた専門的な対ソ研究雑誌であるが、世界を震撼させた1917年のロシア革命勃発を契機にハルビンで始まったソ連研究とその会報が基盤となり、紆余曲折を経て東京で刊行されたものである。この雑誌の詳細について、筆者は既に昨年論考「『月刊ロシヤ』(1935~1944)を渉猟して」を発表しているので(3)、ここでは割愛したい。
 さて、今回改めて『月刊ロシヤ』各号の目次をたどってウラジオストクに関する記事をひろってみた。ところが、それは期待に反して驚くほど少なく、注目したい主なものは2本だけであった。最も大きな記事は1938年4月号に掲載されている高橋長七郎氏の「赤軍の浦潮
入城を目撃して――私の赤露入獄受難記――」の前編11ページ(4)と翌5月号の続編16ページ(5)
である。もう一つは東京の正教神学校出身で「浦潮日報」の記者を勤めた中山貞雄氏(6)の「浦塩のラングトン事件」(7)である。本稿では紙幅の都合で前者のみを取り上げる。著者については写真付きの紹介文があり、「筆者高橋長七郎先生はグレボフ(8)の直弟子でわが露語学界の元老である。現在は京都基督正教主として静かな日を送っておられる。写真は帝政時代モスクワの工場で鋳造された鐘をつく法服姿の先生。」となっている。牛丸康夫著『日本正教史』には「その他ニコライの門下熊本のヴィサリオン高橋長七(後、京都教会司祭)の門から黒田乙吉、茂森唯士、松本傑(樹木節)等が出た。」(9)とある。本名は「長七」で「長七郎」はペンネームであろう。また、黒田乙吉氏自身が著書の中で、「明治42年の秋、当時、熊本にあって恩師高橋長七郎先生についてロシヤ語を学んでいた著者は......」(10)と書いている。ここで語られている「入獄受難」事件は1924年(大正13年)2月に起こっているが、この手記は事件のほとぼりが冷めた昭和13年、つまり実に14年も経過してから「追想」という形で発表していることになる。事件の輪郭をつかむために、著者がこの手記について述べてい「はしがき」をまず紹介したい。

<大正13年2月26日、筆者は浦潮斯徳で海軍の蓑嶋(当時少佐)陸軍の松井(当時大尉)等と共にゲ・ペ・ウ(11)に拘束、御丁寧にも死刑の宣告まで受けたが当時北京駐在の露国大使と我が芳澤公使談判の結果でもあったであろう、同4月16日釈放(国外放逐)せられた。いまその追憶を書いて見たいと思うのであるが、拘束事情を了解する上において、この事件以前の情勢を略述する必要もあり、かつその情勢そのものの内には多少意義のある問題もあるように思われるので、大正11年我が日本軍の沿海州撤収=赤軍浦潮入城から筆を起こして見たい。>(12)

 日本軍の「シベリア出兵」は1918年4月上陸、1922年10月25日に撤退しているが、ウラジオストクの日本人居留民人口は1917年に3152人、日本軍上陸後の1919年6月5915人でピークとなり、1922年6月日本軍撤退前で2684人と半減し、撤退1年後の1923年には719人となっていた。また、統計では高橋氏が拘束された1924年2月でも719人である(13)。氏はどのような立場で浦潮に留まっていたかは触れていないが、日本軍付きの通訳官だったと思われる。
 1922年の日本軍撤兵後のウラジオストクの状況の直接的な証言自体が希少で興味深いが、高橋氏の手記はかなり長文のため全てを紹介するのはむずかしい。そこで、赤軍入城から始まる追想を、節の小見出しとともにごく簡単に要約したい。

[赤白両軍の関ヶ原、スパースコエの決戦]
 日本軍(手記では皇軍)撤収のあとその陣地はソックリ白軍の手に渡ったが、当時赤の大群はロシア本国から潮の如く極東に向かって追撃してきて、コルチャク、カッペル、セミョーノフ各軍を次々に破って、勝ち誇って沿海州になだれを打って攻めて来た。白軍の指揮官デテリクス将軍はスパースコエの陣地に拠って激戦2昼夜を戦ったが、再起不可能の大敗を喫した。

[日本軍撤収と赤軍の浦潮入城式] 
 日本軍撤収後1日をおいて赤軍の浦潮入城式が行われた。入城式は想像以上に立派なものだった。労働者一派は「我が軍来たれり」(ナーシ・プリシリ)と雀躍し、一般市民は息を殺して眺めるばかりだった。市中の要所要所に高台が出来、労農戦士が入れ替わり立ち替わり革命成就祝福の声を張上げるのだった。

[赤軍の安民布告と言論機関の没収]
 赤軍は入城後数日して安民布告を発布した。平和の人民は皆その堵に安んじて従来の業に就けという主意のものだったので、不安裡に息を殺していた市民も安堵のもようだったが、長くは続かなかった。最初に来た恐怖は、浦潮における一切の言論機関の没収であった。赤軍歓迎の社説などを掲げてお世辞を振り蒔いた新聞等もあったが委細かまわず片端から没収せられたのであった。邦人経営の邦字新聞など醜いまでの御世辞をまいたりしたが、矢張り発行の差し留めを喰らった。斯くて沿海州唯一の赤政府言論機関「クラースノエ・ズナーミャ」(赤旗)紙が出現し、他には一葉の印刷物だにも見ることが出来ぬことになった。次に来たのは台所用ナイフの外一切の冷・火武器の没収であった。(下線は筆者)

[追放令に脅える市民]     
 大正11年11月下旬頃だった。赤政府機関新聞赤旗紙の附録上に約300名の追放人名簿が発表せられた。この時の浦潮市民の驚きと恐怖とは到底筆舌すべからぬものであった。追放人名簿の前書きには「下記の人々は来る何日、浦潮停車場広場に集合すべし」と言う意味のものであった。そして市の出口の全てはいわゆる蟻の這出る隙もなくゲ・ペ・ウの兵士に依って固められた。一方停車場の構内には此等追放者を収容すべき列車が準備せられて居るのが、外部からも眺め得られたがワゴン全部が鉄条網針金で張り回されていた。このワゴンが何日何処を指して発車するのかは全然秘密で、誰も此れを知る者がない。

[ゲ・ペ・ウの閻魔帳]――省略
[トロツキイの空軍資金募集]――省略
[搾りあげた献金数百万ルーブル]――省略

[関東大震災とレニン号の醜態]
 大正12年、憎くて憎くてたまらない日本に大震災があった時、彼らは雀躍して喜んだものであった。「自然が日本を罰したり」と叫んで、ありもせぬシャンパンを抜いたということは誰知らぬものもない事実であった。然し一面日本居留民の帰国するものに対しては幾分出国手続きを簡易にして「我等は斯くも人道的なり」と赤旗紙に書かせたものであった。赤旗紙は毎日毎日一面全部大活字で震災日本を報道した。彼等の人道を天下に示すべく日本へ見舞品として千人分の衛生材料を整え、レニン号に積み込んで日本に送ることにした。
 しかし、発錨前には大々的な鳴物入りで、その行をはやしたてたのに反し数日してションボリと浦潮埠頭に船影も薄らげに繋留したのであった。――その理由を説明する後半省略。

[俄然邦人検挙事件起こる]
 レニン号事件以後ソヴェート当局が浦潮居住の日本臣民を睨む眼の光は一層その度を増した。居留民は信書を故郷に送ることが禁じられ、日本からの新聞紙は所々真っ黒に塗りつぶされて配達された。斯くてその年は不気味裡に暮れて13年を迎えたが、2月に入る頃から一部日本人に対する警戒は益々厳重を極めたものとなり、果然4月(2月か?―筆者)下旬に至り、それが具体化して日本人逮捕という活劇が演ぜらるるに至った。――高橋氏が「君に国事スパイの疑いがあるから」として家宅捜索を受け、逮捕せられたのは大正13年2月26日朝尚暗き5時頃であった。――後略。ここで、(前編)は終了している。
 次号の(後編)は、ゲ・ぺ・ウに連行されて、留置場へ、監房に同胞を想う心、監房内の落書き、隣室には日本人が入った、囚人弁当は黒パン4半斤、満員便所の悩み、党員半島人と恋愛合戦、シラミ対策、神父ヤコフの最期、獄中の石田光成、不可解な取調べ、死刑の宣告、花咲く故国への小見出しで、読み物としても読者の気をひく16ページという長文の具体的詳細なルポルタージュとなっている。しかし、ここでの紹介は割愛したい。
 この手記が発表された1938年にいたる日ソ関係を大雑把に瞥見すると、1925年「日ソ基本条約」が締結されて国交が回復したが、その後日本が満州国を成立させ、さらに1937年「日華事変」により華北華中へ進攻すると、中国においては抗日人民戦線結成への動きが加速化し、中ソ不可侵条約の締結、第二次国共合作の成立などソ連との提携がすすむ。これに対して日本は1937年日独伊三国防共協定を結び、その後満州国とソ連、あるいは蒙古との国境で様々な軍事衝突を起こしており、日本国内では反ソ感情が高まっていたはずである。また同時に、「治安維持法」などによる思想、言論統制が厳しさを増していたから、高橋氏の手記もこの時代を反映したものであることに注意を向けたい。

拘禁事件と『浦潮日報』その他の新聞報道
 この事件の新聞報道については、まず最初に昨年秋函館市中央図書館でデジタル写真によりDVD化された『浦潮日報』を検索することにした。幸い『浦潮日報』については橋本哲哉氏の詳細な「極東ロシアとの交流と『浦潮日報』」という研究報告(14)があるので、参考にさせていただいた。氏の探索によって『浦潮日報』は1917年12月9日の創刊号から1931年の最終号までの約3500号の内約2200号分の所在が確認されている。ところが、期待に反して正にこの事件が起こった1924年2月から4月にかけての分は2月13日から5月5日までの号が欠落していたのである。しかも今のところ何処の機関でもこの部分の所在は発見されていないことが分かった。残念であると同時に不思議に思えたくらいである。
 ところで、今回高橋氏の手記を読んで、『浦潮日報』欠号についてはたと思い当たり、納得がいった気がした。つまり、上記高橋氏の手記要約文に下線で示したように、ちょうどこの時期はソヴェート当局により、邦字新聞(これは『浦潮日報』だと推測される)は「発行の差し留めを喰らった」のではなかろうか。これはまだ「仮説」であるが、約2ヶ月半発行停止になっていたため、実際にこの間欠号となり、存在しなかったと考えることは出来ないだろうか(確認できないため、この欠号問題は今後の課題としたい)。
 そこで、この事件については『函館新聞』に当たってみた。
 3月2日付けで(敦賀電話)として大活字見出しの「浦塩で邦人の大検挙 領事館の電信電話を切断し 菊花御紋章を剥奪す」他の記事がある。これは3月1日浦潮から入港した「鳳山丸」が齎したニュースとして伝えている。邦人約20名が検挙されたとし、氏名が判明しているものとして松井大尉、郡司副領事など15名が挙げられ、高橋長七氏も入っている。また、当地国家保安部長カルベンコが公表した逮捕の理由を次のように伝えている。「浦塩在留日本人が赤衛軍隊並びに露国国家組織を調査せる事実ありとの情報に接し此の事実は露国の秘密に達することなれば国家保安部は嫌疑在留民の家宅捜索を26日行いたる結果多くの証拠を挙げたるに拠り逮捕したるものなり。」同じ紙面でニコリスクでも同様の事件があったとしている。また、「外務省公表」として「重大事件であり、露国官憲に抗議し、釈放方に尽力中......」と続く。その後の関連記事として、3月4日同紙に「裏面に潜む鮮人」の見出しで、「浦塩の邦人不法監禁事件の裏面には上海に根拠を有する不逞鮮人組織の結社義烈団員は目下浦塩にある同団員と巧みに気脈を通じ浦塩国家保安部の意図を繰って今回の邦人監禁事件の裏面に活躍している事実があり......」の報道もある。また、『東京日日新聞』の第一報は2月28日(ウラジオ電報)、「松井参謀本部派遣員、ウラジオ保安部に拘引」の記事で、次に3月2日、「在浦同胞拘禁の日、忘れられぬ一大国辱、在留民悲憤の涙に暮る」の長文の記事を出している。

「シベリア出兵」時の日本軍の作戦行動と拘禁事件
 この事件については、舟川はるひ氏が同地領事館副領事でありながら拘引された祖父の郡司智麿氏ら領事館関係者に焦点をあてた綿密詳細な論考「ウラジオストク総領事館館員拘禁事件についての考察」(15)を発表しておられるので、参照していただきたい。舟川氏は外交史料館他の資料およびウラジオストクのロシア連邦保安庁に保管されている事件の貴重な記録等に拠って事件の真相を解明された。
 そこで、筆者は事件そのものと結末についての言及は上記にとどめ、日本軍撤兵後も革命政権が日本に対して抱いていたと思われる報復的政策の背景に注目してみたい。ただ、筆者が参照した文献は以下のように限定的であることをお断りしたい。まず、原暉之氏の『ウラジオストク物語』(16)に当たった。この書では1860年の建都よりはるか以前から、すなわち北東ユーラシア地域がロシア領に組み入れられる過程の前史の部分から書き起こされていて、終章は日本の「シベリア出兵」と1922年10月25日の」日本軍撤兵までとなっている。未刊行のものを含め内外のあらゆる史料・文献が驚異的といえる形で駆使されており、最も十全で学術的なウラジオストク史であると思われる。本稿で取り上げる時期については、以下のような重要な記述がある。
 <沿海州に駐留を続けた日本軍は、1920年4月、「革命軍武装解除戦」と呼ばれる大規模な作戦行動を起こしている。この場合の「革命軍」というのは沿海州ゼムストヴォ臨時政府軍であるが、幾世代にわたるソ連市民が記憶しているのは、この時日本軍によって逮捕され、白衛軍に引き渡されたセルゲイ・ラゾをはじめとする数人の革命派指導者が残酷な殺害を受けた事件である。彼らは蒸気機関車の汽罐に生きたままくべられて処刑されたといわれている。
  また、この作戦行動は同時にコレイスカヤ・スロボトカ(新韓村)に対する襲撃をともなった。日本総領事館には、1910年の韓国併合の前夜から韓国統監府(併合後は朝鮮総督府)の派遣員が駐在し、新韓村の動静を注視してきたが、それから10年をへて、日本帝国主義は朝鮮独立運動の有力な海外拠点を壊滅させるのに成功した>(17)
 上述の「革命軍武装解除作戦」については、関連する「尼港事件」についてとともに同じく原暉之氏の『シベリア出兵――革命と干渉、一九一七~一九二二』(18)にさらに詳述されている。この書に引用されている東京外語学校教授八杉貞利の沿海州方面への旅行記録にある日本軍人の過激派討伐の非人間的行動、態度などは驚くべきものである(19)。
 それにしても、この時期『東京日日新聞』が連日伝える北京での芳澤公使とカラハン大使との日ソ間の談判における日本の強気の姿勢には驚かされる。早期の日ソ国交回復実現と「尼港事件」の補償をからめた交渉が逮捕者の無事釈放を勝ち取ったようである。
 最後に付け加えたいのは、堀江満智氏の『遥かなる浦潮』(20)のことである。平穏に暮らしていた日本の居留民たちが、いやおうなく日本軍の出兵作戦に巻き込まれ、協力を余儀なくさせられたあげく、撤兵時には共に全てを棄てて引き上げざるを得なかった物語が描かれている。また、巻末には左近毅氏の優れた解説があり、浦潮居留民の歴史を系統的に理解することができる。

おわりに――革命戦士とセルゲイ・ラゾォたちの記憶
 ウラジオストク第一の目抜き通りスヴェトランスカヤ通りの中央広場には壮大なモニュメント「極東のソヴェート政権樹立(1917~1922)に一身を捧げた戦士たち」の群像があり、少し先の同じ通りのスクヴェールには上述したように非業の死を遂げた革命の英雄ラゾォの胸像、北側の公園には革命期の労兵ソヴェート議長スハーノフの記念碑があるという(21)。つまり、ウラジオストクは革命政権成立までの戦いの記憶が特に深く刻された都市といえよう。そして、これらの記念碑はすべてソヴェート政権成立期における日本軍の「シベリア出兵」に抵抗する闘争の軌跡を記念するモニュメントともなっている。また、ロシアではソ連時代はもちろん現在でも歴史や郷土史の教科書でラゾォたちの物語が学ばれているという(22)。
 今年は1991年末のソ連邦崩壊から20周年目を迎え、軍港都市ウラジオストクが開放されてからも19年が経過して日ロ友好の側面がアッピールされている。しかし、本稿ではあえて忘れられがちな「シベリア出兵」後起こった「邦人大検挙」事件を取り上げて、日ロ関係史における忘れられがちな「歴史の軌跡」の一端を考察した。

 <注>
(1)Н.П.МАТВЕЕВ,  КРАТКИЙ ИСТОРИЧЕСКИЙ ОЧЕРК г.ВЛАДИВОСТОКА,Владивосток, 1990(1910年出版原著の復刻版)
(2)同上、p.p.222-285
(3)中村嘉和、長縄光男、ポダルコ・ピョートル編『異郷に生きるⅤ』、2010年、成文社、p.p.239-253
(4)『月刊ロシヤ』日蘇通信社、1938年4月号、p.p.170-180
(5)同上、1938年5月号、p.p.117-132
(6)中山貞雄はニコライ神学校卒業後、ペトログラードで日露教会の仕事をしていたとき、『浦潮日報』の主幹山内封介に誘われて入社した。橋本哲哉「『浦潮日報』の成立と「シベリア出兵」」、『金沢大学経済学部論集』、1992年、p.80
(7)『月刊ロシヤ』、1942年、新年号、p.p.108-111、ラングトン事件も興味深いが、前書きの形で、彼自身1923年12月にはゲ・ぺ・ウに拘禁されていたこと、真珠湾攻撃は快挙と喜ぶなども記している。
(8)セルギー・グレーボフは1889年来日、ニコライ堂で神学校教授を務め、翌年からはロシア公使館付司祭を兼ね、その後岩沢丙吉の協力を得て露語学習者の最良書とされた『グレーボフ露西亜文法』を発行した。牛丸康夫著『日本正教史』、日本ハリストス正教会教団、1993年、p.74、高橋長七郎「我国露語学界の恩人 セルギイ・グレーボフ師の追憶」、『月刊ロシヤ』、1938年1月号、p.p.164-170
(9)上記『日本正教史』、p.74
(10)黒田乙吉著『ソヴィエト塑像』、明倫閣、1948年、p.2
(11)「国家政治保安部」の略称、1922年ソヴェート権力の抑圧機関、反革命取り締まり機関である「非常委員会」が改組されたもので、1923年には「統合国家政治保安部」(オ・ゲ・ぺ・ウ)となった。
(12)要約文は原文を部分的に引用しているが、旧仮名遣いは主なものは新仮名遣いに、数字は算用数字に改めた。ただし、人名はレーニンを「レニン」としているなどはそのまま引用している。
(13)上記 橋本哲哉「『浦潮日報』の成立と「シベリア出兵」」、p.75
(14)橋本哲哉「極東露西亜との交流と「浦潮日報」(報告要旨)、函館日ロ交流史研究会主催「ウラジオストク建都150周年記念講演会」の講演レジュメより、2010年10月17日、函館市
(15)上記 『異郷に生きるⅤ』、p.p.107-122
(16)原暉之『ウラジオストク物語』三省堂、1998年
(17)同上 原暉之、p.312
(18)原暉之『シベリア出兵――革命と干渉、一九一七~一九二二』筑摩書房、1989年 
(19)同上、p.p.550-551
(20)堀江満智『遥かなる浦潮~明治・大正時代の日本人居留民の足跡を追って~』新風書房、2002年
(21)В.Д.Сафронов «ПОД ФЛАГОМ РОДИНЫ», Москва,1986,p.p.21-34
(22)ミハイル・ヴィソコフ(サハリン国立大学教授)「日本のシベリア出兵とロ日関係にとってのその意義」、北海道ロシア極東研究会主催公開研究会報告レジュメ、2011年1月14日