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講演会報告要旨 対岸に橋を架けた人々 ―対岸航路と対岸貿易・再考―

2012年4月21日 Posted in 函館-ウラジオストク交流の諸相

原暉之(北海道情報大学教授)

はじめに:対岸への関心
 ウラジオストク市はその対外開放(1992年1月1日)から数えて近く20周年を迎える。筆者がその地を初めて踏んだのは1987年8月のことで、まだ開放の目途が立っていなかった閉鎖都市の頃である。これも初体験だったのだが敦賀発のソ連船でナホトカに上陸し、同地とハバロフスクでシンポジウムに参加した帰り、ある幸運によって1日だけ、厳密には陽の高いあいだだけ滞在を許されたのだった。
 実はそれ以前からこの港町には長年関心を寄せていた。ここに司令部を置いてロシア極東各地に駐屯した「浦潮派遣軍」(1918年8月編成、1922年10月撤兵)の行動を跡づける仕事はすでに10年越しだったし、その間に当時の状況を伝える邦字新聞『浦潮日報』の現物を敦賀市立図書館に見に行ったこともあった。しかし、短い滞在時間に垣間見ただけとはいえ、現地に足を踏み入れたのは研究対象のイメージ作りにある種の決定的な意味を持つことになった。これを一つの有力な出発点として、ウラジオストクという日本の近代史にとって身近でロシアの近代史に特異な位置を占める港町の来歴に改めて強い関心を寄せることになり、さらにその副産物として、ここを主な相手港とする「対岸航路と対岸貿易」について素描を試みることにもなった。日本国際問題研究所で刊行されていた『ロシア研究』にこの題名で論稿を発表したのである(第25号、1997年、以下、旧稿)。
 旧稿で試みたのは、その副題に掲げた「日本海を挟む日露海運の歴史」の見取り図を描くことであった。文字通り試作品の域を出るものではなく、それを少しでも完成品に近づけるには骨組みに肉付けする必要もあり、当初念頭にあった枠組みを部分的に見直す必要もあった。旧稿で何よりも欠けていたのは北日本の視点である。その視点から旧稿の見直し作業を進めていたとき、筆者はたまたま札幌大学経済学部地域経済研究所主催の講演会に招かれる機会があり、その講演原稿をもとに『北海道の近代と日露関係』と題する冊子にまとめた(同研究所ブックレット№9、2007年、以下、新稿)。
 新稿では思い切って北海道に焦点を絞り、19世紀後半の北海道とロシア極東の地域間関係の変遷を幕末期、明治初期、明治中期、世紀転換期の4期に分けて論じることにした。具体的には、①箱館奉行官船亀田丸のニコラエフスク渡航事績、②開拓使のウラジオストク道産品見本市、③昆布と〆粕と鹹漁の環日本海流通、④函館港を中心とする「漁業貿易」と小樽港を中心とする「普通貿易」、という各期に対応する4つのトピックスに着目して、日本海を挟む地域間関係史の再構築を試みた。地域間関係のコアをなすものは経済関係である、との考えから新稿では輸出入貿易を切り口にして検討に努めたのである。
 19世紀後半期は日露両国ともに経済統計の揺籃期であり、とりわけ日露間の接触地帯では物流実態の捕捉度が低い。当然ながら、近代東北アジア地域間関係の経済史的解明は相当の困難を伴う。このことは、検討の過程で改めて実感せざるをえなかった。しかし同時に、北日本の視点から日露間で活動した人びとの色彩の豊かさを再確認できたのは大きな収穫だった。2010年ウラジオストクの開基150年を記念する函館の講演会に参加するに際して題目を「対岸に橋を架けた人びと」としたのは、そんな思いがあったからである。以下の小論では、その中から3つほどの論点を選んで再論と補足を記しておきたい。

1.対岸貿易のはじまり
 1860年に開基したウラジオストクは、安政年間に開港した箱館とのあいだに当初から密接な関係を取り結んでいる。この年の6月20日(旧ロシア暦)、ゾロトイ・ローグ(金角)湾に投錨した輸送船「マンジュール」号の乗組員が湾岸に上陸し、哨所の建設に着手した。それがウラジオストクの開基の日である。このほか、日本海沿岸のポシエト港、オリガ港などでも兵舎や倉庫などの建設がはじまった。それらの港の食糧を確保するため、9月に艦長エーゲルシェリド海軍大尉の率いるコルヴェット艦「グリーデン」号が箱館に向かい、10月1日(同)、生牛28頭と干し草800プード(約1.3トン)を購入して帰路に就いた。北日本の対岸貿易はこの時点ではじまったということができる。
 来航したロシア船による食糧買い上げは、日本側からみれば「居貿易」ということになる。そのような「居貿易」はロシア側の必要に応じて随時成立したのかもしれない。しかし、随時の入港記録や売却記録を日本側で発掘、再構成するのは難しく、事実上不可能である。容易に参照できるのは、『開拓使事業報告』(1885年)の第3編に入っている「外国輸出入」の項であるが、そこに記録されている対ロシア貿易は、箱館奉行所の主導による1861年実施の事業例と開拓使の主導による1878年実施の事業例の2件しかない。
 このうち前者は、箱館奉行官船亀田丸のニコラエフスク渡航の際に実施されたとするものである。これを「出貿易」として特徴づけた最初の日本経済史家は河合栄治郎であろう。河合は自ら編纂した『日本経済史辞典』(1940年)に「出貿易」の項を執筆し、関連資料を収集して『幕末貿易史料』(1970年)に自説を集大成した。しかし貿易の実態は不明のままだった。亀田丸「出貿易」説を日露双方の資料突き合わせによって検証する作業は、函館市史編さん室が『函館市史』通説編第1巻(1980年)を準備する過程でも深められず、同書は「この時の貿易の様子は殆ど不明である」と記すにとどまった。
 そこで筆者は亀田丸のニコラエフスク渡航に関するロシア側の雑誌・新聞記事を調べてみた(函館日ロ交流史研究会編『函館とロシアの交流』2004年)。これによって、亀田丸乗組の水野正太夫(箱館奉行支配調役)、武田斐三郎(諸術調所教授)以下使節団の主目的が実は渡航先における事情調査と地方行政トップの表敬だったこと、ザバイカル州とアメリカ西海岸から主要な物資の補給をうけていたアムール河口地域は雑貨品など亀田丸の持参品にほとんど関心を示さなかったことなどを明らかにした。表敬の対象は、初代沿海州武官知事兼シベリア小艦隊及び東部諸港司令官のカザケヴィチ海軍少将である。亀田丸の一行は清国に出張中の彼が帰任するのを長く待って帰国の前日に会見し、帰路に就いた。
 いま一つ『開拓使事業報告』に挙げられている対ロシア貿易事業とは、1878年にウラジオストクの日本政府貿易事務館で開催された道産品見本市を指す。周到な事前調査と開拓長官の陣頭指揮を伴ったことからみて、その開催は開拓使が全力を挙げて準備した道産品「直輸試売」の事業例であった。しかしこの場合も、使節団渡航の主目的は表敬と現地情報収集の側面も兼ね備えた複合的なものだった。
 『開拓使事業報告』の説明文には、「五年露国新ニ浦塩斯徳港ヲ開ク其実況ヲ視察シ且貿易ヲ開ン為メ」(強調引用者)という文言がある。明治5年(1872年)ロシアがここを新たに開いたというのは、上述の通り同年以後ロシアの太平洋方面における主港と海軍諸施設のウラジオストク移転が同年に始まったことを意味する。開拓使として、その「実況を視察」する必要があった。
 東シベリア総督の指揮下にある武官知事が海軍の司令官を兼務する体制は、1856年の沿海州設置とカザケヴィチの就任から1880年の制度改編まで4代にわたった。第2代フルゲリム海軍少将の任期中にピョートル大帝湾のアスコリド島で越境清国人との武力衝突(「マンズ戦争」)が発生し、ウラジオストクとその周辺地域の防衛強化が至上命題となった。これを背景に、第3代アレクサンドル・クロウン海軍少将に交替後、兼務の海軍司令官ポストは総司令官に格上げされて海軍省の指揮下に入り、主港と海軍諸施設は1872年から順次ウラジオストクに移転していった。開拓使が「実況視察」と見本市の開催、道産品「直輸試売」のため、ウラジオストクに鈴木大亮以下の官吏と函館・小樽の実業界代表からなる使節団を派遣したときの総司令官は第4代のエルドマン海軍少将であった。
 日本海岸への主港移転は、その数年後に締結される樺太千島交換条約とあいまって、環日本海圏の北部における国際環境に歴史的ともいえる大きな変化をもたらす。開拓長官黒田清隆が1878年秋にウラジオストクを訪問してエルドマン海軍少将を見本市に招待したのも、またその直後、今度はサハリン島のコルサコフ哨所を訪問して南サハリン管区長の東シベリア大隊長サーボ中佐に会見したのも、明治政府が北方における国際環境の変動をそれなりに重視していたという文脈で理解する必要があろう。

2.日露交流と北日本の対岸認識
 開拓使は周到な事前調査を実施した、と述べたが、その段階で有益な現地情報をもたらした人物に瀬脇壽人(別名手塚律蔵、1822~1878年)がいる。
 瀬脇は幕末から明治初期にかけての洋学者で、明治政府のもとで外務省に奉職した。1875年に南部沿海州の実情調査のためウラジオストクに派遣されて2か月間滞在したのち、翌年同地に日本政府の貿易事務館が開設されると初代の貿易事務官に任命された。一時帰国で函館に寄港したとき、彼は開拓使のヒアリングに答えて、ウラジオストク港では自由港制が採用され、メキシコ銀が流通していること、長崎との船舶の往き来によって高島炭鉱の石炭輸入がはじまっていることなど、重要な現地情報を開拓使にもたらした。
 開拓使の使節団は多岐にわたる道産品を汽船函館丸に積み込んで持参した。黒田長官がエルドマン宛て書簡のなかで、とくに石炭の試燃を依頼している点からみて、目玉商品の一つは石炭だったと考えられる。開拓使は瀬脇のもたらした現地情報を参考にし、あえて高島炭との競合を覚悟で、道内産の岩内(茅沼)炭の低価格と低運賃を売りにしたのである。しかしその試燃は、品質粗悪のため「汽罐速かに毀損するの害を生ずべし」という惨憺たる結果に終わった。この結果については、使節団に参加した実業家たちに知らされなかったようである。参加者の一人で函館の実業家・平田兵五郎は、「北海道炭の安価なるを知らば或は薪を廃して我石炭を需要するに至るべし、果たして然らば年に二、三万噸は輸入するに至り北海道と浦潮港と毎月数回の通航を為すに至らん」という楽観的な見通しを帰国後に書き記している(『函館新聞』1878年10月12日)。
 主港移転後のウラジオストクでは、現地調達の目途が立たない燃料炭と労働力をいかに確保するかが大きな問題となっていた。すでにクロウン総司令官のとき、1873年の時点で北サハリンのドゥエ炭鉱に代わる良質炭の仕入先として長崎に着目していたが、もしも1878年に北海道から安価に良質炭を仕入れる商談が成立したならば、その後の北部日本海を挟む対岸航路と対岸貿易は実際と異なる展開を示したかもしれない。
 1880年代に入ると、ロシアの義勇艦隊とシェヴェリョフ商会、日本の三菱会社(のちの日本郵船)の定期船がウラジオストク・長崎間を航行するようになり、両港の結びつきはますます緊密になっていった。その一方で函館の対露貿易は長期にわたり低調のうちに推移することになる。K・スカリコフスキー著『太平洋におけるロシアの通商』(1883年)には、ロシア領土から最も至近にある日本の港ながら「函館はいまのところロシアとの通商関係を持っていない」、ロシアの商船は横浜からクリルに向かうスクーナ船が食糧を仕入れるため年に2~3隻寄港するだけである、といった文言がみられる。結局のところ、函館がニコラエフスクから塩蔵サケマスの輸入を急上昇させるのは1890年代に入ってからであり、ウラジオストクとのあいだの定期航路の発足は1896年まで待たねばならなかった。
 とはいえ、長期間つづいた対露貿易の不振がこの間の北海道における対露交流意欲の低調を意味したかといえば、現実はむしろ正反対である。開拓使(のち函館県庁、北海道庁)でロシア語通訳官を務めた小島倉太郎(1860~1895年)の活動にこの点をみておこう。
 箱館奉行所の足軽の子として生まれた小島倉太郎は、父の転勤にともなって日露雑居期のサハリン島で過ごし、少年時代からロシア語に親しんだ。長じて東京外国語学校の最初のロシア語生徒となり、同校を卒業後、開拓使函館支庁に就職する。1882年に開拓使が廃され、函館県庁勤務となるが、その翌年4月にウラジオストクで週刊新聞『ウラジオストク』の刊行がはじまる。この新聞は、周辺の市町村に配置された通信員の投稿記事も豊富で、以後1906年に廃刊となるまで、ロシア極東の全域をカバーする信頼度の高い情報発信源であった。どのようなきっかけによるのか、23歳の倉太郎青年は同紙の通信員を務めることを申し出て、それを条件に毎号の郵送をうけ、自ら執筆した記事を投稿するかたわら、同紙の記事を翻訳して地元紙『函館新聞』に提供した。持ち前の語学力を生かし、双方向の国際交流に携わったのである。
 『ウラジオストク』に掲載された彼の投稿記事は何本かあるが、北千島・占守等に住むアイヌの人たちの色丹島への強制移住に立ち会った見聞の露文記事は千島アイヌの研究者から注目されている(ザヨンツ・マウゴジャータ『千島アイヌの軌跡』2009年)。
 『ウラジオストク』からの翻訳記事も何本かあるが、同紙1885年47号と48号に原文が連載され、『官報』1886年2月18日~27日と『函館新聞』同年2月24日~3月4日に訳出された長文の記事「日本海ノ昆布採獲方法及営業」が最も貴重である。当時沿海州とサハリン島における昆布事業の第一人者でアムール地方研究協会会員でもあったヤコフ・セミョーノフが同協会で発表した報告が原文で、『ウラジオストク』に全文が掲載された。その全訳である。訳者の特定につながる直接の証拠はないが、前後のあらゆる状況から判断して小島倉太郎の翻訳と推定される。何よりも同紙の愛読者で、原文の価値を理解するだけの鑑識眼を備え、日露間の新聞交流に関わっていた人物といえば、彼を措いてほかに見当たらないからである。それにしても原文の掲載は新暦表示で12月6日と13日、長崎・神戸・横浜経由の船便の所要時間を差し引けば、訳者はおそらく1月下旬から翻訳に取り組み、2月上旬までに仕上げたのであろう。文部省編輯局編『露和字彙』(1887年)というスタンダードな辞書さえない時代にこれだけの仕事をした若者の力量は並みでない。
 訳文の「日本海ノ昆布採獲方法及営業」に日本の研究者として初めて注目し、これをセミョーノフ商会のコンブ事業の実態分析に活かしたのは故・清水恵の功績である(『函館・ロシア その交流の軌跡』2005年)。そこでも明らかにされているように、昆布の生産と流通は19世紀後半期東北アジア国際経済の中心に位置していた。対岸の現地体験に基づいて豊富な情報をもたらした外交官、瀬脇壽人に劣らず、対岸から発進される情報の受信・再発信に関わった1880年代の小島倉太郎がこの分野で果たした貢献は特筆に値するだろう。このように対露関係の第一線にあって縁の下の力持ちの役割を果たすが、惜しいことに34歳の若さでこの世を去った。
 1890年代に入ると、対岸認識のあり方に大きな変化が生じた。その一つの現われは対岸に関する地誌情報の体系化にみられる。川上俊彦の『浦潮斯徳』(1892年)はその好例といえよう。川上俊彦(1861~1935年)は新潟県村上の人、東京外国語学校露語科を卒業後、外務省に入り、ウラジオストクには1890年から約1年間書記生として在勤した。のち、ハルビン総領事、満鉄理事、駐ポーランド公使、北樺太鉱業株式会社代表取締役会長、日魯漁業株式会社社長などを歴任する。30歳のときのウラジオストク滞在体験に基づく『浦潮斯徳』は、同市の関連事項を網羅した日本で初の本格的な市内案内である。
 もう一つ、対岸認識のあり方に生じた大きな変化は、対岸認識と自己認識を統合するメタ認識の形成と特徴づけられようか。この点については以下で触れるが、結論的なことを先に言えば、1891年ロシアがシベリア鉄道の着工に踏み切り、その衝撃が日本国内に走るなかで、日本の進路をめぐる問題が否応なしに脚光を浴びたことと深い関係があった。

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週刊新聞『ウラジオストク』主筆ニコライ・ソログープの小島倉太郎宛ての手紙の封筒。消印が4つ捺されている。日付順に並べれば <NAGASAKI JAPAN 29 APR 1884> <KOBE JAPAN 2 MAY 1884> <YOKOHAMA JAPAN 9 MAY 1884> <函館 一七・五・一二・二> となる。書簡の日付は旧ロシア暦で1884年4月2日とあり、西暦に直すと4月14日。ウラジオストクで発信された手紙が長崎、神戸、横浜経由で同年(明治17年)5月12日函館に届いたことを示している。 小島倉太郎関係文書(北海道大学附属図書館北方資料室蔵)
 
3.世界交通と商業立国
 シベリア鉄道の着工・敷設をめぐっては、山縣有朋に代表される日本の政治指導部が戦略鉄道としてのその危険性を説き、対露警戒感にもとづく軍備増強を主導した。この支配的潮流に対抗して、政論家・稲垣満次郎(1861~1908年)は『東方策』『西比利亜鉄道論』を相次いで著わし(1891年)、シベリア鉄道について「我国は宜しく之を利用」すべし、として「利用政策」論を展開した。言論界の中心にいたジャーナリストの陸羯南(1857~1907年)も稲垣の主張を摂取して、これを単にロシアの南進の道具と捉えるのでなく、「中外の商品及び乗客を俟つて初めて存立を得べき」事実に鑑み、「欧亜の公路」として「世界人類の交通」を促し、「世界平和の媒介たらしむる」よう利用すべし、との論陣を張った。
 明治国家の内政と外交に直結するがゆえに、こうした政治思想の分岐をめぐる問題は重要な意味をもち、今日まで広く研究されてきた(本田逸夫『国民・自由・憲政-陸羯南の政治思想』1994年、山室信一『日露戦争の世紀』2005年、朴羊信『陸羯南』2008年など参照)。
 私見によれば、稲垣と陸に代表される主張は中央だけでなく地方の言論界にも共鳴板をもち、その反響の形をとって各地に分節化していった。とくに重要な論点は、稲垣が『東方策』のなかで、「商業対外策の大本よりすれば我国は全世界及び東洋の問屋なるなり」と述べて商業立国論を展開したこと、また『西比利亜鉄道論』のなかで「我日本は加那陀西比利亜二鉄道の括り目にてあるなり」として、日本に世界交通の結節点としての位置づけを与えたことである。各地の言論界が稲垣の主張から大きな示唆をえたことは疑いない。
 北海道では久松義典(1855~1905年)が『北海道新策』(1892年)を発表した。桑名藩士の子で1891年に来道後『北海道毎日新聞』に拠って道議会開設運動に取り組んでいた民権家のジャーナリストである。久松は同書のなかで、おそらく稲垣の商業立国論を念頭に、これを北海道に即して概念化し、「国防上に於ける北門の鎖鑰を一変して通商的北門の店舗となさざるべからず」という定式を立てている。北海道を指して「北門の鎖鑰」とするのは「露国を敵視するの感情的想像より起こりたるもの」であって、大津事件などもこの種の感情に胚胎する「一種奇怪な現象」とみなされる。久松はこう述べて、対露防衛強化を推進する山縣の政府に対して国家を相対化する地域主体の視点を定立したのであった。
 久松は対岸貿易の具体像についても論を立てている。それによれば、シベリア横断鉄道の開通を好機として日露間に通商を興す場合、「小樽若くは室蘭港必ず其要衝に当たらずベからず」、そしてウラジオストク向け輸出に関しては「航路近く運賃低き中等物品は浦港に適す」、その場合の将来展望としては「茶、米、麦粉、石炭、器具類及び他の雑貨は必ず見込みあらん」とした(永井秀夫編『北海道民権資料集』1986年)。
 久松が対露貿易の拠点として「小樽若しくは室蘭」を挙げていることは興味深い。陸羯南と同郷の青森県人で『東奥日報』主筆の成田鉄四郎は、ニカラグア運河(後年のパナマ運河)の開鑿とシベリア鉄道の敷設によって東西海運が活性化するとき、陸奥湾こそが日本で最有力の港湾適地となるとしたうえで、津軽海峡をはさんで競合する青函両港のうち優位に立つのは青森であると論じた。青森は東北本線の全通もあって地域論が活性化していた。成田は青森の優位性を根拠づけるため、下北半島の掘削構想まで展開している(『陸奥湾ノ将来』1894年、河西英通『東北-つくられた異境』2001年)。
 1891年の「シベリア鉄道ショック」は、対露貿易拡大論やさまざまな地域論の興隆を伴い、対岸渡航熱をも生んだ。川上俊彦が小冊子『浦潮斯徳』を執筆したのも、鉄道着工の直後から実況目撃のため北陸地方など日本国内からの訪問者が続々絶たず、そうした渡航者の需要に応じることが直接の動機だったという。ビジネス・チャンスを求めて日本海の対岸に向かう商工業者は「一旗組」に限らず、相当数に上ったのであろう。この時期、船舶構造の改善と港湾築港などの技術革新、沿海州の漁場への出漁ブーム、開港外貿易港や特別輸出港といった格付けと法制面の整備などが同時に進行した。
 こうした側面も含みながら、「シベリア鉄道ショック」後の日本海沿岸各地の対岸に向けられた眼差しは、新潟・函館・ウラジオストク間および函館・コルサコフ間からなる大家汽船の逓信省命令航路開設(1896年)、さらにその全面再編による甲乙2系統の日本海回航線および敦賀・ウラジオストク直航線への改組(1902年)に向かって、政治過程のなかに複雑な諸要因を形づくってゆく。そのプロセスは複雑である(近年の研究成果に、麓慎一「国際環境から見た日露間の航路形成」左近幸村編『近代東北アジアの誕生』2008年)。
 これらの航路形成に関して、ここで述べておきたいのは、1896年に発足した北部日本海の2路線が新潟・富山地方と北部沿海州沿岸水域、北海道とサハリン島沿岸水域を結ぶ「漁業貿易」の勃興に端を発し、しかも「ボタンの掛け違い」を是正して1902年に再編改組されることになる新路線の一部としての小樽・ウラジオストク航路が「漁業貿易」とは一線を画する「普通貿易」の奨励政策として採用された、という点である。
 開港場ながら今やサケマス漁場目当ての「漁業貿易」の母港となっている函館よりも、道央圏の農業・鉱業・工業産品を中心とする「普通貿易」の仕出港として将来有望な小樽の方がウラジオストク港とペアを組みやすい関係にある。1902年函館と小樽のあいだに燃え上がった「起点論争」に対して、北海道庁はこのような認識に立ち、「本道対露亜貿易上、浦潮斯徳への直航線の起点は小樽港を適当とす」という裁定を下した。これは久松義典が立てた対岸貿易論とも一脈通じるものがある。日露戦争をはさみ、その後の再出発から、ともかくも一定期間軌道に乗る札幌近郊産リンゴ・玉葱の対露輸出の成功は、こうした背景をもっていると理解することができる。

おわりに:対岸交流史研究の展望
 ウラジオストクの対外開放は、実は対内開放でもあった。閉鎖都市の開放は、日本海をまたぐ交通アクセスを至便にしただけでなく、太平洋艦隊の拠点都市をロシアの一般市民にとって出入りの自由な普通の大都市に変えた。その変化に促されて、1992年に(戦時下の1943年西シベリアのトムスクに疎開して以来ほぼ半世紀ぶりに)文書館資料のウラジオストク移転が始まり、ウラジオストクに再建されたロシア極東国立歴史文書館は1994年から研究者に対する資料公開を開始した。それは当時全ロシアで進行した「アルヒーフの雪どけ」にも連なる動きだった。そうしたなかで、日本とロシア極東を結ぶ「対岸航路と対岸貿易」の研究にとってもその基盤形成に有利な状況が開かれてきた。ロシア極東の歴史研究は、この分野でも資料の発掘と分析に基づく手堅い研究が蓄積されてきたのである。
 最後にロシア極東の近年の研究動向から3点だけ例を挙げておこう。
 N・A・トロイツカヤ「ロシア極東国立歴史文書館の文書にみる日本と日本人」(『ロシア極東国立歴史文書館論集』第9巻 2005年)。幕末の亀田丸ニコラエフスク渡航の事績にも詳しくふれている。N・A・ベリャーエヴァ『自由港制から関税制へ:ロシア保護主義の地域史像』(2003年)。19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア極東対外経済関係史に関する最も基本的なモノグラフ。M・S・ヴィソコフ『A・P・チェーホフの著作「サハリン島」注釈』(2010年)。帝政期を中心とするサハリン島史研究の必携書。小論で小島倉太郎訳と想定しているヤコフ・セミョーノフ「日本海ノ昆布採獲方法及営業」の原文が同書のなかに全文採録されている。
 日本近代史の一部として成り立つ「対岸航路と対岸貿易」という領域は、当然ながら「対岸」すなわちロシア側の文献資料についても本格的な調査研究を不可欠としている。今後に残されている課題はなお多い。